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なまこ的  行方克巳

鮟鱇の今生憂しとやさしとぞ

口噤むなまこ半分ほど凍り

先手必勝とは思へども海鼠かな

なまこ的処世訓垂れ海鼠食ふ

初夢のみぐるみ剥がれたればなまこ

初鏡父を憎みし日の遠く

老来の企みひとつ年酒くむ

わが追ひつめて凍蝶となりにけり

 

寒 威  西村和子

薬指強張るままの寒の入

寒威天に張りつめ四海真つ平

対岸に黄塵澱む寒日和

この窓の平和いつまで寒夕焼

寒禽の音符のやうなひとつづり

寒鴉ひと声発せずにはおけず

下草は腑抜け裸木気張りたり

マフラーに男の伊達や黒づくめ

 

甲辰の年始め  中川純一

揃はねど家族健在年酒くむ

おいしいと娘ひと言七草粥

熊谷市権田酒造の若夫婦
新妻も蔵の半纏初商ひ

振袖は風切る翼成人式

寒雀小学校の窓のぞく

給食に一皿足して鏡餅

網走時代を回顧しつつ二句
雪の中訪ねて飯鮨いずしもてなさる

流氷に乗りて来世の我は鷲

 

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 中川 純一 選

冬うらら明日には夫の退院と
金子笑子

光るものひとつ身につけクリスマス
橋田周子

伊良湖岬一機のごとく鷹去りぬ
吉田しづ子

プラタナス黄ばみそめたり惜命忌
黒須洋野

聖書めく句帳を卓にクリスマス
吉田林檎

菊坂の肉屋魚屋冬めける
井出野浩貴

秋思あり阿修羅の像の御目元に
村地八千穂

隠れ耶蘇のマリアに捧ぐ野水仙
田代重光

鷹の羽拾ひて茶事の座箒に
山田まや

紛れなく鷹よ翔けても止りても
小山良枝

 

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

とろろ汁真空が喉通過せり
吉田林檎

落葉踏む蛇笏龍太の如く踏まむ
井出野浩貴

落葉踏む道なき道を選りしより
松枝真理子

もう鳴らぬグランドピアノ冬館
佐瀬はま代

喪心に歳晩の街色の褪せ
牧田ひとみ

から松のてつぺんに月引つかかり
中野のはら

紅葉冷え覚えてベンチ立ちにけり
山田まや

嘗て餌をねだらず佇立冬の鷺
藤田銀子

たましひの抜ければ甘し吊し柿
高橋桃衣

星冴ゆる自分を許すこと覚え
田中優美子

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

声かけず背を見送り駅の秋
吉田林檎

こうした経験は誰もが思い当たることだろう。知人を駅で見かけたが、声をかければ届くところにいたのに、声をかけずに見送った。それはその人との間に屈託があったからだ。季語がそれを語っている。
知り合いに偶然出会ったとき、声を掛けあうという間柄は明朗なものだ。しかし人間関係はそうしたものばかりではない。見送った後、その人とのあれこれを作者は思い出している。しかし相手は何も気づかない。立場が逆のことも人生のうちにはあるに違いない。

 

サンタクロースからの手紙を訝しみ
佐瀬はま代

サンタクロースの存在を疑い始めた年齢。小学校の低学年だろう。すでに事実を知っている友達や兄姉たちから聞いて、うすうすわかってはいるものの、まだ信じていたい。子供ながらに、そんな複雑な思いをしているのだ。サンタさんからの手紙と言われて素直に読んではいるものの、この字はパパに似ていると気づいたのかも知れない。この句は事柄がおもしろいのではなく、子供の年齢が語られている工夫が際立っているのだ。

 

かさと音して何かゐる枯かづら
中野のはら

音読してみると「か音」の効果に気づく。体験そのものはありふれたものだが、俳句は表現であることを思い出させてくれる句。ものみな全て枯れつくした世界では、わずかな音も耳に届く。何かがいるに違いないが、ごくごく小さな存在であろう。

 

 


負けまじく  行方克巳

気力体力財力いづれ十二月

海鼠のどこ突つついても海鼠

負けまじく極月のわが食ひ力

熊どうと倒れ一山ゆるぎけり

山眠る令和のゴジラ目覚めつつ

虚にあそび実に迷ひて近松忌

抜けがけの小才もあらず近松忌

年つまる百聞も一見もなく

 

箴    言  西村和子

冬に入る弓場の鏡濁り無し

大鏡磨ぐも弓場の冬支度

白足袋の足の運びも弓師範

凩に怯まず一矢番へたり

箴言は詩言に似たり落葉の碑

枯蔓の刻印あらた墓誌うすれ

日時計に遅るる冬の標準時

男の子らは絶叫疾走冬日向

 

目入り達磨  中川純一

紅葉且つ散るパン屋に寄りてシュトーレン

菊坂の風のすさびて近松忌

闇汁に女加はり煮えこぼれ

底抜けの冬青空の来世まで

山茶花や見慣れぬ鳥のよく鳴いて

薬局のしづかに混んでクリスマス

師の電話ぎつくり腰と小晦日

  第二句集完成
大年の目入り達磨と向きあひぬ

 

 

◆窓下集- 2月号同人作品 - 中川 純一 選

束の間の小春賜り旅三日
佐藤寿子

「太陽」は女性名詞よ天高し
吉澤章子

星月夜来世は羊飼たらむ
井出野浩貴

峻烈な追慕今なほ多喜二の忌
米澤響子

見の限り潮目くつきり雁渡る
影山十二香

病室の良き香秋果もあかんぼも
佐瀬はま代

炭坑の町の消え去り紅葉山
大橋有美子

魁けて桜紅葉のためらはず
山田まや

トナカイの鼻息涎そぞろ寒
大野まりな

駅名にアイヌの響き草の花
小山良枝

 

 

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 西村和子 選

手配写真おほかた若し秋の暮
井出野浩貴

松手入鋏持たぬ手よく動き
松枝真理子

ヴァイオリン奏で木犀ふくらませ
藤田銀子

澱みたるところ華やぎ散紅葉
牧田ひとみ

落葉踏むひとりごころを忘るまじ
前山真理

石段を下りるも遊び木の実散る
林 良子

またひとり消え逆光の芒原
中野のはら

この道をパウロ歩みき秋暑し
江口井子

表札は龍太のままに柿簾
成田守隆

六人が六人注文酢橘蕎麦
小池博美

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

変はらざるものこの町の冬夕焼
井出野浩貴

この町もずいぶん変わったなあという感慨は、何十年もこの町を見てきた人ならではのものだろう。句の表面では変わっていないものを詠んでいるが、景色も人々も変わってしまったことを実は表しているのだ。
「夕焼」という季語は夏のものだが、「春夕焼」「秋夕焼」「寒夕焼」のように、四季を通じて詠める季語の一つである。「冬夕焼」は西空の果に残照のように一時は燃え上がるがすぐに消えてしまう寂しい現象だ。この季語は一つの時代の終わりをも象徴しているだろう。

 

秋うらら江ノ電我も動かせさう
松枝真理子

こんなことを言ったら江ノ電の運転手さんに叱られそうだ。しかし、秋のうららかな一日、一輛電車の江ノ電の一番前から覗いていると、おもちゃのような電車をいとも単純に軽やかにゆっくりと運転している。なんだか私にも運転できそうという句である。単線電車の両側から、芒や萩や芙蓉の花が微笑みかけているようだ。
「江ノ電」や京都の「嵐電」といった町なかをゆっくり走る電車は俳人好みの題材だが、この句の発想は群を抜いている。

 

冬麗や祈祷に終はる弓稽古
牧田ひとみ

普通の弓道場ではなく、祈祷に始まり祈祷に終わる宗教にかかわる場所であろう。確か鎌倉の窓の会で出た句だから、円覚寺の境内の弓場であろう。「冬麗」という季語から、風もなく晴れ渡り、しかも空気がぴんと張り詰めた空間が想像される。稽古の終わりに仏像に手を合わせるとは、心身ともに静かな心境の持続を願ったものだろう。読み手の心もしんとしてくる。

 

 


道連れに  行方克巳

てか/\のブロンズであり秋の河馬

働かず競はず勤労感謝の日

石叩行く手/\に水走り

夜を寒み五欲のほかの物思ひ

神の旅黄泉醜女を道づれに

青々と婆のほまちの冬黍畑

万太郎句碑
芥子粒の如きいろはや冬桜

初冬の鉄棒鉄の匂ひして

 

山  盧  西村和子

笛吹川越ゆやつやめく草紅葉

果樹園の烟むらさきだちて冬

松手入をりをり枝をうちふるひ

山並へ目を休めよや松手入

大山祗神を畏み柿簾

貫禄の竿を継ぎたり柿簾

銀杏ちる一色一途潔き

しづかなること林のごとき人の冬

 

雪の美肌  中川純一

秋夕焼五時のチャイムの空を染め

日曜の昼は娘の焼きし鯖

うそ寒や血圧下がりても頭痛

テラコッタとは講堂の秋の色

黐の実や実験室の窓に顔

すれすれの弧の張りつめてのすり飛ぶ

作務僧の手は休ませず鷹仰ぐ

斜里岳の雪の美肌に御慶かな

 

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

日蔭より日だまりしづか小鳥来る
井出野浩貴

攻め焚きの窯の火を噴く夜長かな
山田まや

刀自の間のシンガーミシン小鳥来る
青木桐花

サヨナラは夕三日月の改札に
米澤響子

騎手落しあつけらかんと祭馬
若原圭子

曇天に辛夷黄葉の発光す
佐藤寿子

落葉踏み広場てふ名の美術館
小山良枝

秋風やこの先頼む杖を買ひ
染谷紀子

サイロより高きアカシアもみぢかな
吉澤章子

秋の夜や卓にひろける旅土産
佐瀬はま代

 

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

桃すする夜盗さながら音ひそめ
藤田銀子

湖面より湧き立ちにけり虫時雨
井出野浩貴

ゆきあひの日射しにひらき秋日傘
牧田ひとみ

うつとりと木木生き生きと秋の雨
佐瀬はま代

ねぶた武者この世にあらぬもの睨み
石原佳津子

紅テント芝居はねれば虫の闇
三石知左子

休む間も言葉少なし松手入
成田守隆

藪枯獣のやうに仕留めけり
志磨 泉

無理せねば家業廻らず秋日傘
島野紀子

秋風や文鎮のせし案内図
磯貝由佳子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

稲妻や遠流の地にも田畑あり
藤田銀子

遠流の地といえば、隠岐の島や鬼界ヶ島のような島を思い浮かべる。そこに実際に行った時の作であろう。文学や歌舞伎などでは、遠流の地を詠んだり演じたりする場面があっても、日常生活が描かれているわけではない。劇的な場面や悲壮感を象徴するのが「稲妻」であるとすれば、「田畑」は日々の生活を表していよう。
この句を読むと、島流しにあった貴人や策謀家の悲劇的な場面だけでなく、その人、あるいはお供の人々が毎日何を食べて生き延びていたか、ということにまで思いが至る。数日間のことなら島人や村人が食べ物を恵んでくれることもあったろうが、数年間ともなると自ら田畑を耕して食料を調達しなければならない。悲劇の主人公たちもこのように生き延びていたのだということも思わせる作品。

 

十月の電信柱翔びたちさう
佐瀬はま代

「十月」が動くのではなかという不安もあるが、電信柱が翔びたちそうというのは、晴れ上がった風の秋の一日を思わせる。電線も軽やかに波打っているのだろう。この句は頭でまとめたものではなく、実景から得た実感に違いない。

 

コスモスやアンもアンネも夢描き
三石知左子

コスモスは少女好みのか弱げな花。実態はそうではなく逞しいらしいが、この句が季語として語っているところは、少女趣味の揺らぎやすい花である。「アン」は「赤毛のアン」、「アンネ」は「アンネの日記」。どちらも私達の世代が少女時代に読みふけった本だ。だからその名を聞いたかで、友達のように思い浮かべることができる。「赤毛のアン」のアンの夢と、「アンネの日記」のアンネの夢とは違うものだが、少女時代の切実な夢であったことに違いない。大人になって振り返ってみると、思春期特有の果敢ない夢であったと思うが、それだけに純粋で貴重だとも思う。

 

 


山毛欅林  西村和子

海峡の秋色町を浸しゆく

登高や山毛欅の木霊に伴はれ

歩を止めて山毛欅の爽気を肺深く

みちのくの汽笛哀調芒原

赤とんぼ一輌電車からかひに

うつちやられ明日も働く稲刈機

船見えずなるまで傾げ秋日傘

鬼やんま乱世の魂の憑りつきし

 

葦原醜男  行方克巳

地上絵のごとくに秋の美し国

島山の三角錐や鳥渡る

九十九折その山の秋水の秋

鰊群来まるにもっこ背になじみ

秋夕焼アイヌメノコの血色さし

雪螢ひとりでもいいひとりがいい

吾こそは葦原醜男葦枯るる

とことはの座礁余儀なく草の花

 

億万の葦  中川純一

宵闇の小腹にひとつカンロ飴

秋風を待つフランネルシャツ合はせ

       北 海 道
あをあをと秋蒔小麦雨に濡れ

廃坑や噴き出してゐる霧衾

雁渡るわたる遥かに利尻岳

泥炭野とは葦の穂のどこまでも

雁渡る男の猪首仰がしめ

立枯るるまま億万の葦傾ぎ

 

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 中川 純一 選

軍国少女たりし日遠く終戦日
江口井子

穴の数ほどには鳴かず庭の蟬
石原佳津子

非常階段かなぶんが死に蟬が落ち
井出野浩貴

幼子はいつも小走り秋桜
影山十二香

穏やかに暮れたる二百十日かな
山田まや

霧深し天下分け目の古戦場
小島都乎

螢狩水の匂ひを辿りつつ
小山良枝

レリーフの智者を仰げば風さやか
小倉京佳

生くること試されてゐる残暑かな
前田沙羅

農捨てて二百十日の闇濃かり
吉田しづ子

 

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 西村和子 選

涼新た働く女眉の濃く
牧田ひとみ

渋滞のニュース眺めて盆三日
高橋桃衣

赤とんぼ弧を描くてふことのなく
井出野浩貴

梅雨明の烈日情け容赦なし
藤田銀子

昼顔の吹かるるままの心地よく
山田まや

露草を卓にけふよりまたふたり
石原佳津子

死者も又言葉交はせり盆の墓
折居慶子

あきらめて少し老いたり夏の果
松枝真理子

つづくりも除染も済ませ萩の声
岩本隼人

中洲には中洲の平和猫じやらし
米澤響子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

ワイパーも予報も加速台風来
牧田ひとみ

台風の接近を気にしながら車を運転しているのだろう。ワイパーが加速するということは、雨脚が激しくなったことを示している。カーラジオで聞いている台風の進路予想も数時間おきから一時間置き、数十分置きという具合にどんどん加速してきた。この表現にはスピード感があり、危機感も伝えて巧みだ。

 


梅雨明や草木虫魚大音声
藤田銀子

星野立子の、

蓋あけし如く極暑の来たりけり

という句を思い出す。昨日までじめじめとした雨が続いていたのに、急に暑くなるということがある。梅雨明け宣言も間に合わないような自然界の動きだ。作者には突如晴れ上がった夏の気候が、このように聞こえたのだ。「草木虫魚」は自然界の生きとし生けるもの、しかし虫以外は声は立てない存在だ。その草や木や魚が大音声をあげているということは、詩人には伝わる。雨に打たれておとなしく潜んでいた生き物たちが梅雨明けと同時に喜びの声を発しているとは、同じ生き物として共感を覚える。

 

 

誰も居る筈なかりけり昼寝覚
山田まや

昼寝から覚めたときの現実との違和感を表した句。九十代の作者は一人暮らしだが、昼寝の夢の中では子供時代の誰彼や、子育て時代の子供たちなどが出てきたのだろう。目が覚めて何かの音や気配を感じ取ったのかもしれない。現実の自分の境遇や状況を改めて思い直すと、誰もいるはずはないのだ。「なかりけり」の詠嘆は人生の感慨にも通ずる。この言い回しにこめられた心情を読み取りたい作品。

 

 


月の鏡  西村和子

月を待つ上方の幸つまみつつ

みちのくの人と浪花の月見酒

大阪の人ら足早月今宵

上るほど膨らみにけり今日の月

ビル街の底なる我も月の客

大阪の衢耿々月今宵

望の夜や亡き人の声はるかより

月の鏡にあの頃の我ら澄む

 

新宿の眼  行方克巳

月光のしみみに烏瓜の花

夕ひぐらしかなしかなしとしか鳴かぬ

死ぬ遊びおしろいばなの化粧して

白桃の隠し所の打身かな

鳥渡る新宿の眼はまばたかず

馬肥ゆる贅肉われはたのむべく

描線の鋼なすなり曼珠沙華

秋の浜蹼のあるごと歩む

 

錦帯橋  中川純一

未草大蛇と姫と祀られて

白日傘歩み佇み錦帯橋

秋暁やつぎつぎ目覚め牡蠣筏

手花火や賢こさうなる富士額

先導の祭着のはや着崩して

人いきれ浴びつつ花火仰ぎけり

小鳥来る顔の大きな孔子像

割り込んで意義あり/\法師蟬

 

 

◆窓下集- 11月号同人作品 - 中川 純一 選

マネキンの赤きシャツ欲り生身魂
小野桂之介

山の端を灯してゐたり遠花火
吉田しづ子

仲見世の風生ぬるく鬼灯市
林奈津子

尻尾まづ瑠璃を授かり蜥蜴の子
前田沙羅

我が里の自慢のひとつ十全茄子
菊池美星

水色と桃色の涼夫婦箸
馬場繭子

水掛けのバケツ叩いて渡御を待つ
廣岡あかね

母の浴衣似合ひて娘盛りかな
佐藤二葉

娘に譲る母の手縫ひの藍浴衣
吉澤章子

花火果て船続々と戻り来し
鴨下千尋

 

 

◆知音集- 11月号雑詠作品 - 西村和子 選

ICT研修眠し枇杷たわわ
井出野浩貴

海図読むやうに祇園会案内図
志磨 泉

身ぎれいに老いを養ひ牽牛花
藤田銀子

水琴窟屈めば蜘蛛の糸からむ
吉田泰子

みちのくの列車嘶く日の盛
中津麻美

かなぶんぶんやぶれかぶれにぶつかり来
立川六珈

乗りの良き客や上方夏芝居
三石知左子

梅雨深き思ひに香を焚きにけり
山田まや

力瘤孫と見せ合ふ宿浴衣
小野桂之介

端居して何もせぬこと落ち着かず
小倉京佳

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

ねこじやらし教師たやすく騙さるる
井出野浩貴

聞き捨てならない句だが、教師が騙されるのは生徒かその父母か。世間知らずの教師なら詐欺師にも騙されそうだ。この句の主眼は「ねこじやらし」という季語である。これによって、耳触りのいい言葉にころっと騙された自分の経験か、同僚のことを詠んでいるのだろうということが察せられる。
教師という職業は聖職だと私は思っているが、昨今の風潮では悪知恵に関しては立ち行かないこともあるのだろう。自嘲の句と取ってもいいし、一般論と受け止めてもいい。「ねこじやらし」は曲者だ。

 


覚悟して京へ乗り込む大暑かな
志磨 泉

ただでさえ暑い大暑の頃、盆地の京都へ行く覚悟を表明した句。「乗り込む」という表現に、吟行を楽しむとか物見遊山に行くのとは違う、心身の構え方が出ている。私の経験から、京、大阪は日本で一番暑い土地だと思う。天気予報で最高気温だけを見ると他の土地も負けていないが、京、大阪は夜も暑いのだ。そのことを知っている作者だからこそ詠めた句。

 

 

水琴窟屈めば蜘蛛の糸からむ
𠮷田泰子

「水琴窟」は優雅な庭の拵えとしてよく句材にされるが、美しく纏まっている句が多い。その点この句は、蜘蛛の糸が顔にからんだという鬱陶しいことを詠んで現実実がある。
水琴窟を楽しむには、屈んで耳を傾けねばならない。水音が聞こえたかどうかよりも、蜘蛛の糸がまつわりついた気持ち悪さを詠んでいることから、手入れの行き届いていない庭であることもわかる。

 

 


草津白根  西村和子

朝霧や落葉松林銀を刷き

露草のつゆまたたかず八重葎

朝戸開け草刈の香の迸る

秋風や草津白根の背を流し

盗み摘む買物篭へ釣舟草

濃竜胆剪るや指切る山の水

調律の遠音気怠し避暑ホテル

退屈も湯治のうちや法師蟬

 

夕ひぐらし  行方克巳

朝曇救急車過ぎ赤子泣き

棍棒クラブ投げ交はすごとくに花火爆ぜ

おしろいの路地の日暮のなつかしく

盆僧の二タくせ三くせありげなる

蓮池のをちこちの揺れ交はしけり

久闊やまそほの芒葛の花

かなかなやありては憎きことばかり

心ぼそきことをまた言ふ夕ひぐらし

 

志賀高原  中川純一

山道の斥候めいて赤蜻蛉

いつの間に小石が靴に月見草

雷雨来る堪忍袋の緒が切れて

湯煙の息吹きかへし夕立晴

寄る人に蛍袋は顔上げず

ゴンドラを放りこんだり青山河

霧しのび入りて山襞たぶらかす

赤とんぼ千五百二日の旅の空

 

 

◆窓下集- 10月号同人作品 - 中川 純一 選

降り出せば声太くなり鬼灯売
小野桂之介

生ビールみんな揃ふを待ちきれず
小野雅子

長梅雨の肩を嚙みたる自動ドア
小倉京佳

さなぎより名付けて飼ひし甲虫
岡村紫子

すかんぽや風連別の水滾り
佐藤寿子

汗の子の髪も眸もくるくると
川口呼瞳

聞き役に徹して崩す冷奴
鴨下千尋

目高飼ふバリアフリーの待合室
栃尾智子

草いきれ抜けて真白き灯台へ
牧田ひとみ

沖縄の海より蒼き熱帯魚
青木あき子

 

 

◆知音集- 10月号雑詠作品 - 西村和子 選

一木に策を練りをり梅雨鴉
高橋桃衣

家に寄りつかぬせがれの涼しさよ
井出野浩貴

腰に受く魔女の一撃梅雨に入る
藤田銀子

凌霄のほたりと落つる閑かさよ
牧田ひとみ

白日傘ふはとかたむき舟傾ぐ
くにしちあき

柿の花父亡き町にしきり落つ
小倉京佳

刺青もビジャブも四万六千日
川口呼瞳

大船鉾地中ゆたかに水湛へ
米澤響子

風の路地抜けて大船鉾正面
志磨 泉

糸鋸を兄に教はる夏休
月野木若菜

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

赤ん坊襲来さくらんぼ到来
高橋桃衣

「赤ん坊」も「さくらんぼ」もどちらも愛らしい存在である。脚韻を踏みながら、軽やかに対句形式で詠い上げているが、「襲来」と「到来」の意味の差が読み手を考えさせる。「襲来」はよくないものや恐ろしいものがやってくること、「到来」は、到来物というように嬉しい贈物が届くこと。
本来は赤ん坊も神様からの贈物だ。しかし何故襲来と言っているのだろう。作者は最近初孫を得た。出産後の娘さんとともに赤ちゃんがやってきて、日常生活が忙しさで大変なことになっているのだろう。ひと世代前だったら、初孫を得た多くの女性が四、五十代だった。ところが今は六、七十代である。出産年齢が上がったとともに、おばあちゃん世代も高齢化した。四、五十代の体力と、六、七十代の体力とを比較してみると、「襲来」の一語におおいなる実感が込められていることがわかるだろう。いうまでもなく、初孫がやってきたことは嬉しいに違いないのだが、「孫」という言葉を使わずにこれだけのことを定型で表せるのは、並大抵のことではない。よくぞこのように人生の実感を詠い上げたものだ。

 


夕立くる母のミシンの音消える
くにしちあき

聴覚で捉えた現実の音と追憶の音。昭和生まれの私達の母親は、よくミシンを踏んで子供の洋服を縫ってくれたものだ。現代のような電動ミシンではなく、足踏み式のものであったから、その音も家じゅうに響き渡っていた。しかし、夕立が来ると、ミシンの音も消されがちだったエアコンもない昭和の家の様子が思い出される。「くる」と「消える」という二つの動詞を重ねて、夕立が来るや否や、ミシンの音が消えるという勢いを表している。私の母もそうであったが、私達姉妹の服はすべて手作りだったので、母は一日中ミシンを踏んでいたような記憶がある。今でも夕立の音を聞くと、作者の耳に甦る昔があるのだろう。

 

 

鴉二羽乗り込む雨の貸ボート
小倉京佳

「乗り込む」という表現から、たまたまボートに止まっているのではなく、雨で人間が乗っていないので、我が物顔にボートを楽しんでいるようだ。知能程度の高い鴉のことだから、晴れた日には人間達が楽しそうに操っている貸しボートを見下ろして、隙あらば、と思っていたのかもしれない。そのチャンスがやってきたとばかり占有しているのだろう。しかも二羽であるところまで人間達の真似をしている。

 

 


夜 風  西村和子

銅鑼一打全天の夏至告げ渡る

プロコフィエフ耳に焼肉喰らひ夏至

蹲る薪小屋味噌蔵螢飛ぶ

酔眼を凝らせば消ゆる螢かな

沢音の泡立つあたり草螢

宵山の風を袂に姉小路

夕風のいつしか夜風鉾提灯

宵山の路地より圖子ずしへ亡き人と

 

五体投地  行方克巳

一昔二昔はや螢の夜

ししむらはししむら思ひ螢の夜

螢の夜含み笑ひのそれは「駄目ノン

山荘に朝一クール宅急便

あめんぼの五体投地の水固き

蟬の屍と同じ数だけ蟬の穴

休暇明け心変はりの我にひとに

休暇明け大人びしことひとりごち

 

蟻の穴  中川純一

蟻の穴二つ並んで大わらは

青梅雨の仁王のかひな拗くれる

青葉闇法語ならざる烏啼き

人待てば四万六千日の星

泣きながら抱かれて祭浴衣かな

めづらしく女将が舞へり夏座敷

網戸替へ外がすつきり見えてゐる

行列の汗の背中の進まざる

 

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選

昼顔のあつけらかんと縺れあふ
井出野浩貴

七七忌寺領離れぬ黒揚羽
森山淳子

立葵白きばかりが暮れ残り
松井洋子

文字摺や遠流の島の能舞台
前田沙羅

椎の花胸騒ぎして振り返る
林奈津子

螢火を導く螢ありにけり
山田紳介

ダービーの美しき脚揃ひけり
鴨下千尋

山峡に灯連なり懸り藤
石澤千恵子

艶々の整列桐箱のさくらんぼ
影山十二香

キタキツネ行く初夏の滑走路
大塚次郎

 

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選

レース着て鎌倉駅へ老姉妹
牧田ひとみ

たれかれの亡きことに慣れ胡瓜揉
井出野浩貴

青蜥蜴引き返すとき迷ひなく
岩本隼人

いつ見ても何も起こらず蟻地獄
田代重光

梅雨滂沱中洲を消してしまひけり
廣岡あかね

町の名の旧きを守り神輿舁く
藤田銀子

昼顔へしつかりおしと声をかけ
佐貫亜美

母の日の卓なれど子の好きな物
島野紀子

柏餅子ども等はもう帰らざる
黒羽根睦美

黒日傘たたむ素性を明かすごと
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

玉葱や専業主婦と濃く記す
牧田ひとみ

「専業主婦」とは職に就かずもっぱら家事に当たる主婦、「主婦」とは一家の主人の妻、一家を切り盛りしている婦人と定義されている。私自身も専業主婦であった時代が長かったが、今の若い女性は結婚しても子育て最中でも、専業主婦という境遇を通す人は少ない。この言葉自体私達の年代が最後であろうと思うことしきりだ。
何かの折に職業や身分を書かねばならぬ状況だったのだろう。得に職業もない、若い時の仕事を続けているわけでもない。専業主婦と思ったとき、「濃く記す」という表現に誇りと開き直りのようなものをこめたのだろう。
玉葱は夏の季語だが、家庭の野菜籠には一年中あるものだ。旬を迎える夏は甘味が強く生でも食べられるが、どの季節でも西洋の鰹節といわれるくらい料理には欠かせないものだ。そのありふれた野菜である玉葱を季語として配した点に、この句の味わいがある。

 


梅雨滂沱中洲を消してしまひけり
廣岡あかね

「出水」という季語は梅雨の豪雨によって河川が氾濫することをいうが、今年も各地で被害が起きた梅雨だった。梅雨時の雨が降り止まない時、多摩川の中洲がみるみるうちに沈んでしまったことを私達も目にした。ニュース画面でもこういった情景は梅雨時だからこそ見られる。
中洲であるということがはっきり見えていたのに、見る間に消えてしまったという豪雨の激しさを描いている。

 

 

昼顔へしつかりおしと声をかけ
佐貫亜美

昼顔は近くの草や金網に絡みついて、はかなげな花を咲かせる。頼りなげなその花は、女性の性格や生き方にも譬えられ、映画やテレビドラマの題名としても親しい。登場する女性は美人で自立せず、はかない魅力に満ちているので、男性としては放っておけない存在なのだろう。
そんな昼顔の本質をまともに描くのではなく、目にするとついこんなふうに声を掛けたくなるという具合に打ち出しているこの句も、写生が根底にあるということを忘れてはなるまい。作者の声が聞こえてくるようではないか。

 

 


訃 音  西村和子

三階の窓覗けさう時計草

強まらず卯の花腐し止みもせず

覚めぎはの夢にも卯の花腐しかな

夏霧や甲斐の山襞削りつつ

渓声も梅花卯木も生まれたて

全貌を見せずかがよふ皐月富士

訃音到るや東京梅雨に入る

麗しき五月に忌日加へたり

 

外来種  行方克巳

新しきパスポートはや梅雨じめり

どこへ飛ぶあてなき梅雨のパスポート

夏の惨劇おまへらはみな外来種

ひゆんひゆんと青大将を振り回す

雪残る利尻富士てふ剽げもん

夏雲の戴冠見よと利尻富士

網戸青々灯して逃げも隠れもせず

白南風や毎日カレー曜日でも

 

恐 竜  中川純一

恐竜は忘れて兜虫に夢中

画廊夏花束抱いて男来て

失恋を忘れてかぶりつく西瓜

夏ドレス透けて青山大通り

大銀杏青葉たぎらむばかりかな

頰寄せて目高のぞいて姉弟

じたばたと砂浴二秒雀の子

カウンター越しにとんかつ屋の金魚

 

 

◆窓下集- 8月号同人作品 - 中川 純一 選

青鰻や女将を口説くふりばかり
藤田銀子

砂丘から海を見ている春日傘
山田まや

汽水湖の風の尖れる氷下魚釣
佐藤寿子

魚籠揺らし水撥ねとばし大山女魚
帶屋七緒

住み馴れし我が庭眺め春惜しむ
村松甲代

初夏のオールの零す湖の青
佐貫亜美

異邦人われか新大久保の朱夏
三石知左子

靴振れば小石ぱちりと日永し
森山栄子

一列に釣銭並べ草餅屋
中津麻美

ひざぐりの間中めし屋のさより刺し
田代重光

 

 

◆知音集- 8月号雑詠作品 - 西村和子 選

食ふ寝るに困らず諸葛菜の庭
藤田銀子

余花に遇ふ旅に余白のあればこそ
井出野浩貴

跡取りのおつとり見上ぐ武者人形
牧田ひとみ

階段を飛び降りてみせ子供の日
影山十二香

花明りあへて歩調を合はせざる
𠮷田林檎

ソックスは白く三つ折り夏に入る
三石知左子

涅槃図へ割り込むやうに拝しけり
山田まや

白黒白白白雨の夏燕
小山良枝

少女らは前髪大事若葉風
森山栄子

田を返す石州瓦輝かせ
高橋桃衣

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

若布干すおやぢとは口利かぬまま
藤田銀子

主語はあきらかにされていないが、「おやぢ」という言葉から息子であることが想像される。若布を干すという作業は、若布が採れる間のわずかな期間なので、家族総出で浜辺で茹でたものをすぐさま干すという、天候を見ながらの仕事となる。手伝わない訳にはいかないのはわかっているのだが、最近父親と折り合いがよくない。そんな仏頂面の息子の姿が見えてくる。
そういった家族関係の経緯を、わずか十七音で表現するのは案外難しいものだ。「おやぢ」という呼び名を効果的に用いた作品。

 


軽暖や振れば真白きたなごころ
吉田林檎

「軽暖」は薄暑の傍題だが、なかなか使いこなすのは難しい。薄暑の頃、こちらへ向かって手を振っている若い女性のてのひらの殊更なる白さに、季節感と美を感じ取ったのだろう。音読してみると軽やかな動きが見えてくるようだ。てのひらを「たなごころ」と表現しているのも成功している。川端康成に「掌の小説」というのがあるが、こうした文学的な言葉も使いこなしている。

 

 

陣痛の波の引く間に柏餅
三石知左子

作者の産院の医師という職業が、この句の鑑賞の手助けになる。今まさに出産しようとしている女性が柏餅を食べているのではなく、その場に立ち会っている医師や看護師が食べているのだと解釈したい。
初産の場合、陣痛が起きてからすぐに出産となるわけではなく、何時間も痛みに耐えて全力を尽くさねばならない大仕事である。医師や看護師は経験上すぐに出産という事態になるわけではないことを、知り尽くしているのだろう。だからこそ、陣痛の波が引いている間に、柏餅を食べようという発想も行動もありうるのだ。「柏餅」である点に、あんぱんやケーキとは違って、生まれてくる赤ん坊への祝福の意味もこめられていよう。

 

 


滝  西村和子

小さきを水尾にかばへり通し鴨

すでにして滝音届く木の根道

滝五裂十裂千々に砕けたり

滝風に打たれしのみに怯みたり

滝行のつむりと見ゆる巌かな

爪先をきちきち刻み神輿舁く

神輿集め雨の洗礼浴びせたり

東京の夜空初々しき五月

 

雨 蛙  行方克巳

前線に躙り寄りけり雨蛙

少年の眉目寄せたり雨蛙

これ以上近付かないでと雨蛙

ぎしぎしや昔極刑村八分

大方は散るべく咲いて柿の花

鰻屋の婆の口上世知辛く

鰻重の御重の蓋の松と梅

父の日も蕎麦焼酎の蕎麦湯割り

 

筒 鳥  中川純一

筒鳥や乾きそめたる草踏んで

遠足やをとこ走りに女の子

浅間噴きアイスクリーム濃く甘く

もんどりを打つて鯉幟の父さん

楡若葉吹き抜け帽子攫ふ風

どくだみが咲くどんな世にならうとも

定年の後にもありし五月病み

 

 

◆窓下集- 7月号同人作品 - 中川 純一 選

行春やたたむ和服の日の匂ひ
山田まや

春宵の米粒ほどのピアスかな
吉田林檎

レントゲンに映る血栓春寒し
田代重光

天ぷら屋しながき手書きふきのたう
吉田泰子

生きてゐる証の木の根明きにけり
谷川邦廣

すかんぽや里に親無く家も無く
吉澤章子

そぼ降れる癌病棟の花の雨
八木澤 節

交番に大人の迷子春の宵
三石知左子

すかんぽや川沿ひに旧る町工場
青木桐花

トラムにも坊つちやん列車にも落花
松井洋子

 

 

◆知音集- 7月号雑詠作品 - 西村和子 選

つばくらや雨の城下の黒瓦
井出野浩貴

五十年経てば骨董春灯
高橋桃衣

孫弟子の老いて華やぐ立子の忌
藤田銀子

戒名のやうな俳号四月馬鹿
影山十二香

信仰に闘ひの日々松の芯
牧田ひとみ

括られしより生き生きと豆の花
松枝真理子

駅弁の酢の匂ひ立つ夏隣
田代重光

春昼の画廊の棚の砂時計
中津麻美

九十一の春欲ばらず生かされて
山田まや

吹かれては三色菫ウインクす
吉田泰子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

さへづりのけふは姿を見せにけり
井出野浩貴

春になって百千鳥の声が耳を楽しませる頃、雀や鶯とは違って耳新しい囀を降り注いでくれる小鳥がいる。この鳥はいったい何だろう、どんな姿をしているのだろうと以前から気になっているが、一向に姿を見せない。そんなことが誰にもあると思う。
この句のポイントは「は」一音である。いつもは声だけで親しんでいる存在が、今日は珍しく姿を見せた。その発見の喜びが一句になった。昨日も一昨日も囀を聞いているのに、今日だけその姿を見た。他から区別して際立たせる場合の「は」である。

 


ぱかんぽこんかぱんこつぽん港春
高橋桃衣

同じような擬音語でありながら、よく読んでみると、全て違う。動詞が一つもない。でもこれだけで、のどかな漁港の春の昼間であることが描けている。港といっても横浜港や神戸港ではない。船と船が小突きあったり、杭にぶつかったりする音を、ひとつひとつ聞き取って描き分けている。その工夫を読み取りたい。

 

 

花水木夕暮は母寂しがる
影山十二香

高齢のお母さんだろう、日の暮に寂しい思いをするのは、働き盛りや子育て最中の年代にはわからない感情かもしれない。人生の一般的な仕事をやり終えて、夕暮の時間を持て余す年代になると、ふと寂しさが襲ってくる。そんなお母さんを思う情が伝わってくる作品だ。
これが秋の夕暮だと付きすぎになるが、ようやく日も長くなって街や庭に花水木が咲く季節に詠んでいる点に注目した。「花水木」は本来の水木の花ではなく、アメリカ花水木である。私の住む町にも街路樹として植えられ、白い花びらがひらひらと風に揺れる様は、人の心も明るくする。明治四十五年東京市長だった尾崎行雄がワシントン市に寄贈した桜の苗木の返礼として、大正四年に贈られてきたそうだ。百年経って東京の街にもすっかり根付いた。
この季語によって、お母さんが深刻な寂しさに囚われているのでもなく、めそめそしているわけでもないことが語られていよう。

 

 


三 溪 園  西村和子

尺取虫一寸先も見えてゐず

逸りては堰かれては鳴る春の水

渡れとて飛石いくつ春の水

水迅し飛石を縫ひ芹あら

この庭や山吹の谷蕗の海

雨脚の縦のち斜め松の芯

裏木戸を封じ木香薔薇盛り

朝刊に包みつややか芹の束

 

大徳寺納豆  行方克巳

春荒の波にこと問ふ都鳥
空也上人
春なれや南無阿弥陀仏なんまいだ

行春や地獄巡りの万歩計

不意に五月日めくり怠けゐたる間に

六道の辻の片陰濃かりけり

大徳寺納豆一粒半夏生

夏めくや草木虫魚人われも

固まつて亀の子束子みたいやね

 

蠅 生 ま る  中川純一

蛇坂の先に寺あり萩若葉

屈託も忖度もなく蠅生まる

赤心のありやと問へる菫かな

少年に少女駆け寄り花は葉に

春日傘かしげエッフェル塔見上ぐ

うららかや売物の椅子道に出し

行春やボート乗り場をただながめ

肩幅の歩きだしたり入学子

 

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

一夜にして街にあふるる春コート
井出野浩貴

温かき子の手を頼り梅見かな
村地八千穂

立子忌の月に寄り添ふ星一つ
小池博美

亀鳴くや月のうさぎに恋をして
野垣三千代

丁子屋の湖へ開けたる春障子
米澤響子

箱の中息して届く蕗の薹
鈴木ひろか

古き良き昭和の失せて年明くる
谷川邦廣

鶯や山懐に父母眠り
横山万里

前かごにスケッチブック春きざす
中津麻美

山積の本そのままに寒明くる
黒羽根睦美

 

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

まづ詣で懸想文売探しけり
山田まや

あるじなき屋敷のしだれざくらかな
井出野浩貴

裸木に凭れ二脚の高梯子
大橋有美子

手相見の人相あやし春の宵
松枝真理子

春昼の鏡の顔の他人めく
牧田ひとみ

節分の鬼を追ひかけ京ひと日
中野のはら

若菜摘む万葉人の血を継ぎて
佐瀬はま代

風光るチアリーダーの力瘤
前山真理

好きな色ばかりを摘まむ雛あられ
松井秋尚

毛糸編む絵を描くやうに色を替へ
山﨑茉莉花

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

埋火に炭足して待つ夜の稽古
山田まや

「埋火」「炭」という季題は令和の現在、日常生活では親しみが薄れてきた。電気やガスによる暖房が普及して、千年前から用いてきた、炭で暖を取るということはほとんどなくなった。したがって炭火を消すのではなく、灰の中に埋めて火種を長持ちさせるためのものということも常識でなくなった。表面的には消えかけたように見えるものが実は燃えているということから、胸中の比喩として千年前から歌に詠まれてきた。作者は茶道教授なので、日常的に埋火に炭を足すというようなことを行っている。句の後半に至って、茶道を習いに来る弟子を待っている時の静けさや緊張感が伝わってくる。しかも「夜の稽古」である点に感銘を覚えた。作者は今年九十一歳である。こんな時、投句用紙に記された年齢や職業が鑑賞の手助けになるのだということを、皆さんも心に留めておいていただきたい。

 


春の夜の食器洗ひ機うたひだし
佐瀬はま代

食器洗い機というような味気ない家電品が、句の題材になるとは私も知らなかった。食器洗い機用洗剤がスーパーでは売っていない頃からこの恩恵を受けている私としては、はっとさせられた一句だ。最近息子の家に行って、食器洗い機の音が静かなことに驚いたが、まさか曲を奏でるような新機種が出たということではあるまい。
食後のひと時、食器洗い機に働かせてテレビを見たり家族と話しをしたりするひと時は、主婦にとってうれしい時間だ。そんな思いを「春の夜」という季語と「うたひだし」という描写に託した一句。いつもの機械の音がまるで歌っているかのように聞こえるのは、作者の幸福感を表していよう。

 

 

風光るチアリーダーの力瘤
前山真理

チアリーダーといえば応援団の花形で、バトンをくるくる回す動きやミニスカートの眩しい服装などに目が行きがちだが、この句は「力瘤」に焦点を当てた手柄。季語は動かないし、笑顔や溌溂とした若さの裏に、たゆみない練習によってできた力瘤も眩しい。このように一般的な視線ではなく、自分なりの発見と感動があることで、俳句は際立ってくる。