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知音副代表 中川純一が、この度、第二句集「雪道の交叉」を上梓しました。

中川純一 第二句集
『雪道の交叉』
2024/1/15刊行
朔出版

◆帯より
小鳥来るその木の幸のあるごとく

 とある一樹を目指して飛んで来る小鳥たち――。まるでその木には彼らだけが知る幸が備わっているかのようである。人生のまことの幸せとは何かを深く考える齢に作者はいまさしかかっている。しかし、一方では、人類の滅亡の危機を梟に問わなければならぬような時代にも直面しているのだ。俳人として、科学者としての作者の今後に注目する所以である。
行方克巳


◆自選12句
破蓮進化の果といふことを
山眠る見えざる水の奏でゐて
初絵筆頬ふつくらと描き入れし
雪道の交叉は若きらの交叉
猫の仔の貌ひつつりて鳴きにけり
ミニチュアの江戸の娘も夕涼み
嬉しさの不眠もありて明易し
木犀の香る七曜はじまりぬ
流れ星消えて危ふき星にわれ
月光にまみれ遡上の背鰭跳ね
梟に聞く人類の絶滅を
踏み当てし落葉隠れの根瘤かな


◆あとがきより
 キャンパスが雪に埋まると、講義棟をつなぐ細い雪道が縦と横に掘りおこされる。始業時や授業の合間に若者たちが雪道を行き来して交叉するのを二階の窓から見ていると、彼等が自分の道を探しながら学び、友情を育んで人間として成長しているのが見えて、自然と希望が湧いてきたのであった。北国で学生たちと交叉しながら過ごした十一年間は、私にとって特別な意味を持つと考えて、句集名を「雪道の交叉」とした。
中川純一

知音代表 西村和子が、この度、第八句集「わが桜」を上梓しました。

西村和子 第八句集
『わが桜』
2020/8/3刊行
角川書店
花便り待つや京にも我が桜

ひそかに思い決めた「わが桜」――見ることが叶わなくても、心によみがえらせ、詠む。平成26年から平成31年までの句を収めた第八句集。

◆自選12句
流水の通奏低温夏館
たんぽぽの絮は吹くより蹴つ飛ばせ
水音は冬へ落葉の音午後へ
菠薐草の子ふたりに血を分かち
花便り待つや京にも我が桜
うき世より一寸浮きて梅雨籠
草の根の力を恃み七日粥
枯れてなほみ仏に夢見る力
恋人より恋心惜し革手袋
身の内の隙間風聴く夜の底
流氷のひそと寄せ来てひしと組む
若布干す虫養ひにつまみつつ

◆「あとがき」より
前句集以後七十歳までの作品を纏めた。そのうち平成二十九年の一年間は俳句日記『自由切符』に収めたので、この年の句は少ない。
心ひそかに私の桜と思い決めて、毎年見にゆく花がある。ひとつは終の住処と定めた多摩川のほとりの老木。夫と最後の花見をした桜だ。樹下の輪から抜け出て来た青年が、シャッター押しましょうか、と撮ってくれた写真が今も居間に飾ってある。翌年からは、ひとりで花に語りかけている。
今ひとつは夫の菩提寺、京都の金戒光明寺の山門の桜だ。墓参のたびに仰ぎ、十五年になろうとしている。いずれ私もこの地に眠り、満開の枝越しに京の町を眺めることになるだろう。
毎年夏を過ごす群馬県草津にも、私の桜がある。五月の連休が過ぎた頃、のびのびとした総身にようやく満開を迎える色濃い花だ。ここでも句を詠みかけることにしている。
ところが今年の疫病流行で、京都にも草津にも行けなくなった。多摩川の土手の桜は、はやばやと蕾をつけ、例年よりも長い間花の枝をさしのべてくれていた。訪ねることが叶わなかった桜を思いつつ、第八句集の題名とした。

知音代表 行方克巳が、この度、第八句集「晩緑」を上梓しました。

行方克巳第八句集
『晩緑』
2019/8/1刊行
朔出版

青葉雨 死もまた一身上の都合

「知音」代表の最新句集。「晩緑」とは、「新緑」すなわち初夏の若葉の緑に対して、終わりかけの緑を表す。人生の感慨を季語に託し、軽やかに詠いあげた第八句集。

◆自選12句
遠くより呼ばれて昼寝覚めにけり
致死量に足らざる鬱や秋かはき
狡猾な眼をして鮫のひるがへる
無味無臭而して無策冴返る
泥抽いて泥の光の蘆の角
茅花流し母のことその母のこと
万華鏡の中の秋風見てゐたる
柿一つ買ひ今生の秋一つ
鰭酒に舌焼き虚実皮膜論
都鳥水の火宅もありぬべし
北風やお日さまといふよきことば
立ち枯るる男たるべし荒野(あらの)打つ

◆「あとがき」より
「慶大俳句」に参加して、清崎敏郎師や、楠本憲吉、杉本零氏等の知遇を得て、俳句にのめり込んでから、またたく間に半世紀以上の歳月が過ぎ去った。
昭和、平成そして令和を迎えた今も、「季題発想」という私の作句信条は変わることはない。
また、俳句は「何を詠まなければならないのか」ではなく、「何をどう詠めばいいのか」であるという私の気持ちもは変わらない。
この度の句集名は「新緑」に対しての「晩緑」という心である。
もし、私の作品が人の心に届きにくいとしたら、それは私の表現力が至らぬためである。心して表現力を磨くことに励みたいと思う。

西村和子第七句集『自由切符』
2018/5/30刊行

ポプコーン膝にこぼして春休み
光増しつつ白木蓮の花仕度
緑さす手書きメニューにハーブティー
鹿鳴くや茶粥の椀を置きたれば

2017年の365日を俳句と文章で綴る。ふらんす堂ホームページ『俳句日記』連載を書籍化。

◆シリーズ最新作
日々異なる季語を詠むことで、これほど日常を襞深く過したこともなかった。

3月8日(火)
光増しつつ白木蓮の花仕度

このあいだまで地味で瘦せた裸木だったのに、蕾がひとつ残らず膨らんで、一気にひらく日を今か今かと待っている。駅までの道がこの頃ほど楽しみなことはない。ある日いっせいに灯ともるごとく咲くのだ。

◆あとがきより
この一年ほど季節の移りゆきをこまやかに感じたことはなかった。日々異なる季語を詠むことで、これほど日常を襞深く過したこともなかった。六十代最後の年の何よりの記念になった。

西村和子著『清崎敏郎の百句』
2017/6/15刊行

◆俳句は足でかせぐものだ

蹤いてくるその足音も落葉踏む

落葉を踏んで歩く時、人は孤独感のうちにも、今、ここに在る自分の存在を改めて確認する。静けさの中で、この句はもうひとつの足音を聞いている。自分に蹤き従って歩む者の、落葉踏む音である。その足音も孤独の象徴と言えよう。創作の道を歩む師弟関係を思わせる句だ。その存在に気づいていても、待ってやったり、声をかけるでもない。隣り合う孤独を思うばかり。
句集『系譜』の掉尾に置かれた句。風生没後「若葉」の継承者として出版した句集の題名にも、その覚悟は表われている。

西村和子著『愉しきかな俳句』
2017/1/28刊行

医師、学者、作家、歌舞伎役者、落語家、CMディレクター、詩人……第一線で活躍する達人十五人と、自身の仕事について、人生について、俳句の魅力について、縦横無人に語りつくす。快活洒脱の対談集!

岸本葉子(エッセイスト)
奥本大三郎(仏文学者・昆虫研究家)
山本道子(料理研究家)
永田和宏(細胞生物学者・歌人)
間村俊一(装幀家)
太田和彦(デザイナー・居酒屋探訪家)
板東三津五郎(歌舞伎役者)
細谷亮太(小児科医)
小森邦衛(漆芸家・人間国宝)
増田明美(スポーツジャーナリスト)
ロバート キャンベル(日本文学研究家)
川上弘美(作家)
中島信也(CMディレクター)
古今亭志ん輔(落語家)
高橋睦郎(詩人)

計15名

西村和子著『季語で読む徒然草』
2016/9刊行

兼好法師の無常観は四季の移りゆきから生じたのだ。季語という視点で古典を読み解く、シリーズ第3弾!

目次

門松―改まる人心の妙
双六―「負けじと打つ」
さぎちょう―松明けの火祭
稽古始―未熟なうちから
雪の朝―心通う人は
霜―若き日の兼好
嚔―兼好の女性観
追儺―節分の豆撒き
雪解―いかに生きるか
朧月―恋の思い出〔ほか〕

シリーズ自句自解1 ベスト100 『西村和子』2015/10/1刊行

◆必読入門書
俳句はこうして生まれる。
欲しかった一冊。

初句索引に加え、「私を育ててくれた人々」を書きおろしている。
入門書としては必須アイテムのシリーズ。

行方克巳第七句集『素数』
2015/9/18刊行

夜焚火や阿修羅の一臂折りくべて
涅槃図の後ろの闇を見てゐたる
白菊や死に顔をほめられてゐる
目の慣れし暗さにピエタ降誕祭
白虹日をつらぬくインカ滅びし日も
揚雲雀空の階段あるかぎり
末黒野の土管の口があいてゐる
わが夏の視野のかぎりのホロコースト
夏草に屈めばでんでら野のむかし
ロック座のにせバラ灼けて巴里祭
水切つて雪の匂ひの新豆腐
秋出水鞣すごとくに日ざし濃く
霧深しマトリョーシカの中は月夜
素数わが頭上になだれ冬銀河
白椿万巻の書のみな白紙

行方克巳著『世界みちくさ紀行』
2015/2/24刊行

俳句と同じくらいに写真が好きという行方克巳さんは、旅も好き、お酒も好き、人も好きなのだろう。世界中、どこの誰にも笑顔でカメラを向け、少々の不満すら新しい出会いのように綴り、その旅日記や句はいつも楽しい記録だった。
だが、アウシュヴィッツでの彼は違う。カメラでいえば、広角レンズを接写レンズに替えたように、そして、普段の饒舌を忘れたように、ただただ無言で遺されたものに向かい合っているのだ。あそこに立つと、人は言葉を失う……でも、彼は句を作った。                                    (作家・野村路子)

「あとがき」から(抜粋)
今までいくつもの海外旅行をしてきた。しかし、そのほとんどがいわゆるツアー旅行の一員としての旅であった。
外国語は全く駄目、旅先のあれこれを調べるのもめんどう。だから予備知識もない。そんなわけであるから、同行者のいない個人的な旅行を設定することは全く考えられないのである。
いつも、どの旅行でも、ツアー・コンダクターの旗の後ろにくっついて歩くだけの旅であった。しかし、そういう旅もそれなりに見るべきところを見てきたように思う。
私は写真が大好きであるから、旅行中は常々カメラを携えていたが、ある時期までは海外での俳句作品がほとんどない。俳句は日本独自の文芸であり、日本の風土にしか育たないという思い込みがあったからである。
ところが「知音」の親しい仲間から、「克巳先生は俳句を作ってなんぼでしょ」と言われて少し考えが変わった。
有馬朗人さんや鷹羽狩行さんの海外詠句集を目にして、いっそうその思いを深くした。なるほど確かに俳句を作ってなんぼ、なのである。
一瞬のうちに通り過ぎる旅において、一体どのような事実を見ることができるか、と言われれば確かにその通りである。しかし、ある土地に何年住みついても分らないことはいくらもある。旅人の目を掠めるように映ったことにも真実があるに相違ない。
この紀行文は、とにかく何でも見てやろうという心で、カメラを片手に旅をしてきた記録である。俳句作品もまたスナップショットの域を出ないかもしれない。しかし、それもまた、旅人としての私の目を通してみた記録なのである。

目次+各地吟抄(俳句は口絵・本文から一部転載)
<アメリカ> 片目つぶってニューヨーク
<ドイツ> ベルリン・フィルのジルベスター
<スペイン> 自然は急がない
血より濃き酒は血の色ジタンの冬
初旅のオリーヴ畑行けど行けど
初旅のゲルニカに遭ふマハに逢ふ
<カンボジア> 東洋のモナ・リザと子供達
スコールや廃墟いましむアナコンダ
ライ王のテラスに髪膚灼きつくし
<イギリス> クイーン・エリザベス二世号乗船記
船窓のうちなる秋のとらはれ人
葡萄畑霧が燻蒸してゐたる
神の血をかもして余りたる葡萄
<インド> 北インドふたりぼっち
民草は土に居眠り十二月
星雲の滅びも一死荼毘寒く
人焼いて鼻梁焦がせり十二月
<モロッコ> モロッコ百句を手土産に
憎さげに笑ふ駱駝や十二月
哭き女峡の冬日をてのひらに
地に糞(ま)りしものの如くに冬の蛇
<エジプト> エジプトの光と陰
冬の蠅にせパピルスを買へゝゝと
冬耕やナイルの恵みなき民の
冬の黙深し未完のオベリスク
<南米> 真冬からそのまま夏へ
降誕祭もつとも遠き椅子にわれ
滝せめぐなり純白のブラックホール
鉈傷のごとく古道や夏燕
<スリランカ> 滴る宝石の国
辻仏膝下くすぶるまで灼けて
猿がゐて犬ゐて人がゐて五月
火炎樹の猛り仏の国しづか
<ポーランド> アウシュヴィッツの青い花
焼却炉晩夏の花をつめこんで
生き地獄見て来し汗の眼鏡かな
汗かはき義手や義足や息絶えて
<イタリア> シチリア周遊記
神々の黄昏ながきビールかな
夏雲の飛石伝ひ地中海