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冬 籠  西村和子

揺り椅子の軋みに抱かれ冬籠

読みさしも詠みさしもし冬籠

こま切れの時間大切日短か

寒鴉松の威を借り月を負ひ

その声の凄み帯びたり寒鴉

寒鴉うつて変はりし愛の声

寒鴉色艶増して人も無げ

寒禽のこゑの華やぎきたりけり

 

棒線グラフ  行方克巳

秣ほども薬出されて十二月

薬喰みんな地獄へ行きたがる

疫病ときのけの師走の疑心暗鬼かな

疫病の棒線グラフ去年今年

初湯して七十齢のおゐどかな

追羽子やパンデミックは音のなく

かまくらは千五百の産屋燭ゆらぎ

竹梯子富士に懸けたり出初式
(「ウエップ俳句通信」120号と重複あり)

 

熟 睡  中川純一

熟睡してテレビ体操忘れ初め

雑煮椀膨れかかりの餅が立ち

着物着て羽子板市にパリ娘

むつかしきことを易しく講始

パルティータ恍惚ポインセチア燃え

八千歩あるき寒椿へ戻る

ポストまで二百五十歩春隣

イーゼルに白きキャンバス春を待つ

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 中川 純一 選

鶴折ればどれも傾き憂国忌
米澤響子

店員の藍の前掛け新酒買ふ
𠮷澤章子

黒葡萄魔女の吐息に曇りけり
井出野浩貴

ときをりの日矢に零れて冬桜
中田無麓

湯豆腐や京に木綿は白と呼ぶ
島野紀子

曙の水面染めたり浮寝鳥
江口井子

掌にぬくめてホットレモンの香
吉田しづ子

マフラーやわが彷徨の欅坂
黒須洋野

枯菊の枯れに枯れたる軽さかな
福地 聰

話すことなくても愉し暖炉燃ゆ
前田星子

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

切干のほとびて母のゆふまどひ
井出野浩貴

手をひかれハロウィンの子の口あかく
吉田林檎

紅玉の今日焼林檎明日はジャム
山崎茉莉花

近所にも名所十景黄落期
井内俊二

抽斗に無効の旅券鳥渡る
藤田銀子

二の酉の空に星なく月のなく
栃尾智子

愚痴つてもおもろい男おでん酒
影山十二香

飴色の日に猫じやらしこくりこくり
田中久美子

木の実独楽せうことなしに廻りをり
米澤響子

創刊号準備大詰日短か
月野木若菜

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

旅心今は押さへて毛糸編む
山﨑茉莉花

「今は」がどういう状況を示しているのか、この句からはわからないが、同じ時期を生きている私たちには、新型コロナウィルスの世界的感染の今であることがわかる。こういう句は前書きがあったほうがわかりやすかもしれないが、句集を編むとき、令和二年の冬の作として収めれば、おのずからこの背景はわかる。今の過ごし方の偽りない本音である。旅行はしたいけれど、今はそれを押さえて、家に籠って毛糸を編んでいるのである。
作者は五十代後半、子育ても終わって、体力のあるうちに夫婦で旅行でもしたい時期なのであろう。人生の今にしてできた句といえよう。

 

人間に信じる力神の留守
藤田銀子

この句も今の世界情勢をふまえた作である。新型のウィルスが正体不明のものである以上、今の私たちに何ができるだろう。特効薬やワクチンの開発が急がれているが、これで疫病退散とはいかない現状である。何ができるだろうと突き詰めて考えた結果、神仏に祈るしかない人間のはかない存在に思い至ったのだ。「神の留守」という季語は、この句の場合かなり象徴的に用いられている。神社に行って手を合わせても神様は出雲に旅立っているのである。ひいては神の存在さえ疑っているかもしれない。「人間に」と一般的に表現していることが、全世界の人間存在を意味しているとも受け取れる。祈る対象の神は宗教によってそれぞれ異なるが、祈れば通じるという信じる力があってこそ、明日への希望が湧いてくるのだ。

 

気を付けの右へ傾いで七五三
栃尾智子

七五三の句は七歳の女の子か、五歳の腕白か、三歳の幼子か、読んですぐ目に浮かばなければならないと私は思っている。この句は疑いもなく五歳の男の子だ。記念写真を撮ろうにも一瞬たりともじっとしていない。祖父母か両親が「気を付け」と号令をかけたのだろう。素直に従ったが明らかに右に傾いでいる。男の子の可愛さが描かれていて微笑ましい。

懐 剣  西村和子

初富士の鬣けぶる車窓かな

年酒酌む遺影に語りかけられて

ダリの牛古径の丑と賀状来る

懐剣の丈の見えたり語り初

安普請隠しもあへず花八手

花八手老の待ち伏ここに又

花八手都に鬼門不浄門

遠隔会議中座画面の白障子

 

イマジン  行方克巳

疫病ときのけのマスクの含み笑ひかな

目配りの効いて女将の白マスク

イマジンとつぶやいてみる冬の星

みちのくの夜話いまに青邨忌

切り貼りの千鳥古りたる障子かな

晩年や柚子湯に遊ぶこともなく

日向ぼこ地獄巡りの途中とも

点鬼簿に誰彼加へ十二月

 

底 冷  中川純一

エスカレーターの先頭七五三

紅葉して実生十糎の楓

蒼き月都庁に上がり三の酉

値崩れの白菜の山輝ける

底冷やむすび一個に人心地

東京に雪虫遣はせしは誰ぞ

年詰まる立食蕎麦に師と並び

隣り合ふベンチに美人日向ぼこ

 

◆窓下集- 2月号同人作品 - 中川 純一 選

片割も間遠に応へ残る虫
米澤響子

秋さびし運河倉庫の文字の欠け
吉田しづ子

どれほどのことを丁度と葛湯吹く
高橋桃衣

悪口の上手な男おでん酒
影山十二香

青空へ続く石段七五三
前田沙羅

目覚むれば県境超え秋うらら
吉田林檎

あの日より日記が途絶へ夏の川
原 川雀

立冬の日や寛解の身を預け
黒山茂兵衛

身に沁むや母の最期のありがたう
吉澤章子

原点に戻つてゆきぬ冬木立
山本智恵

 

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 西村和子 選

小望月帝国ホテルの横に出づ
高橋桃衣

鈴虫や靴の小石を掻き出せば
井内俊二

池の面を桂馬飛びして銀やんま
田代重光

鳳仙花弾き転校して行きし
石原佳津子

また来てと母に言はれて秋の暮
井出野浩貴

天高し川向うから行進曲
井戸ちゃわん

切り返しベンツの曲る萩の路地
中野トシ子

秋扇いきなり箸となりにけり
天野きらら

前山のにはかに退り秋時雨
中田無麓

制服に受賞のリボン冬あたたか
小倉京佳

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

柿たわわひとつづつより雨雫
井内俊二

始めは一本の柿の木を遠くから眺めている。たわわに実っているというのが第一印象。近づいてひとつずつの柿を見るとそこから雨雫が落ちている。広い視野から極小のものへ段々にズームアップしていく視点の動きがある。こうした手法は俳句にしかできないことである。もちろん映像ではできるのだが、写真や絵ではこうした視点の動きは出せない。名句を読んでいると、この手法を巧みに使っている句に出会うことがある。大いに学ぶべきと思う。
この句は雨が上がった直後だということがわかるし、熟した柿からの雨の雫がきらきら光っていることも見えてくる。おのずから場所柄も想像できる。

 

人影の梵字となりて阿波踊
田代重光

阿波踊の大きな会場を外れた路地の光景と思われる。明るくライトアップされているのではなく、踊る影が影絵のように光線に浮かび上がっているのだろう。阿波踊は盆踊であるから、死者の魂を迎えたり慰めたりする思いが籠っているものだ。したがってこの「梵字」という例えは、単なる比喩を超えて宗教的な意味合いまで含まれている。それにしても、手を上げ足を上げて踊る阿波踊の人影を梵字と見た比喩は巧みだ。
私も阿波踊の連に加えていただいて踊ったことがあるが、この人影は男踊に違いない。

 

水道の水の旨しと帰省の子
石原佳津子

家を離れていた子供が夏休みに帰ってきた時の言葉だろう。井戸水とか地元の名産ならまだしも、水道の水がおいしいといった子供の言葉に、作者は胸を突かれたに違いない。子供が暮らす大都会の水道の水はそれほど味気ないということだ。薬の匂いまでするのかもしれない。もちろん作者は毎日口にしている水道の水の味が、それほど違うとは初めて知ったのだ。帰省子を読んだ俳句はよく見るが、この句は新鮮味がある。実感の籠った言葉がそのまま作品になったからだ。

跳梁跋扈  西村和子

マフラーや口ごもるとき句が生まれ

マスク捨てひと日の徒労葬りぬ

立錐の炎と化せりスケーター

午後の日の失せて筆擱く膝毛布

花びらのめらめら冷ゆるポインセチア

灯を消せばポインセチアの緋も消えし

狐火は跳梁疫病神跋扈

返信の隙無し師走の縁切状

 

冬に入る  行方克巳

ペン描きの並木の掠れ冬に入る

落葉掃くこころの隅をはくごとく

明け暮れの点料たのみ一茶の忌

鴉にも悪たれ口や着膨れて

着膨れて減らず口とは減らぬもの

だめもとの話勤労感謝の日

聞きわけのよい子悪い子七五三

千歳飴すぐに引き摺り振り回し

 

新 米  中川純一

新米と抜いて真赤な幟旗

小鳥来る相方ゐてもゐなくても

鮭を待つ川の紺碧きはまれる

ドメーヌと標し特区の葡萄垂れ

摘みごろの余市の葡萄日あまねし

かしましく葡萄選果の娘らは

雪螢風の急流日に注ぎ

熊よけの鈴が先頭柿日和

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

児の駈けて一家総出の稲を刈る
島田藤江

蓑虫へ鳴くかと問へば揺ぎけり
志佐きはめ

奔放に見えて真剣秋桜
小澤佳世子

満ち足りし色に出でけり今日の月
前田沙羅

露草の瑠璃を深めて通り雨
大野まりな

草原に並ぶ彫像天高し
大村公美

柏槇の幾世の闇や昼の虫
黒木豊子

白木槿蘂の先まで真白なる
井出野浩貴

酒蔵に満つる新酒の香りかな
平野哲斎

ウェディングドレス運ばれ秋灯
高橋桃衣

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

国を盗り国を盗られて曼殊沙華
井出野浩貴

冷え冷えと有刺鉄線角栄邸
高橋桃衣

かき口説く太棹きしむ秋じめり
島田藤江

野分雲迅し新幹線より速し
石山紀代子

句短冊使はぬままに夏終る
大橋有美子

われからや逆賊こそが救世主
岩本隼人

鳳仙花庭から入る祖母の家
吉田泰子

捨田にもなほ一旒の曼殊沙華
中田無麓

伝令のをるや蜻蛉みな去りぬ
中野のはら

色変へて広がりゆくや処暑の海
菊池美星

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

小鳥来る母の月火水木金
井出野浩貴

平日の暮らしぶりを丁寧に表現したのが月火水木金というわけだ。土曜日曜は家族が来たり行事があったり、他の暮らしがあるのだろう。それを一日ずつ表しているのは、丁寧な生活を言っているとともに、似たような毎日を言っているのかもしれない。「小鳥来る」という季語は、秋の明るい一日を表しているので、決して暗い日常ではない。むしろ、季節の恩恵を楽しんでもらいたいという作者の祈りも感じる。
 

あちら子連れこちら犬連れ秋日和
高橋桃衣

秋の好天の公園の情景であろう。あちらの人たちは子供連れ、こちらは犬を連れて来ている。音読してみると、ラ行の音の繰り返しが、軽やかな心持ちを伝えることがわかるだろう。あちらという表現は、あっちとか、彼らとかあそことか、いろいろと言い換えられるはずだが、「あちら」「こちら」という語の選択は、ちょっと気取った距離をも感じる。子連れに対して犬連れという言葉は、おかしみもある。「秋日和」という季語は、他の季節にも言い換えられるようだが、空気が澄んだ高い空の下での人々の解放された気分は秋でなければ感じとれない。
 

修羅能の果てたる銀座秋しぐれ
島田藤江

銀座六丁目にある能楽堂を出たときの作であろう。修羅能というおどろおどろしい演目を観た後で、外に出てみると、都会の街並みは雨。現実の世界からかけ離れた能楽堂の時空から、瞬時の間に銀座通りに出た落差を味わいたい。能の世界に浸っていたときは、人間の業という内面の闇を探っていたのだろうが、銀座通りは日常の世界である。その対比をつないでいるのが「秋しぐれ」という季語であって、作者にとっては単なる通り雨ではないのである。 

柿博打  行方克巳

ちつちやな秋ちつちやな秋ちつちやな秋の小走りに

浅知恵の恋のあはれや菊人形

抱かれてお夏菊師の意のままに

ハロウィンの南瓜のなかにされかうべ

ハロウィンの化粧崩れのやうな奴

禅寺丸鵜は唖々とばかり鳴き

柿博打渋い顔して笑ひけり

銃眼の三角四角柿の秋

 

小鳥来る  西村和子

廂間にけぶりたりけり小望月

待つ我に月人男つきひとをとことどまらず

実紫よべの月光浴びけらし

十六夜や雲の羽交に隠れつつ

十六夜の月よりの風かんばせに

久々に集ふ晴天小鳥来る

玻璃の楼積木の砦小鳥来る

小鳥来る天金の書に飾り文字

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 西村 和子 選

じやがいものよくぞ積まれし荷台かな
中川純一

親つばめ餌をやる口を迷はざる
井出野浩貴

今朝生れし蟬かじくじく鳴くばかり
高橋桃衣

白梅の万の蕾に心充ち
栗林圭魚

噴水の水が元気と男の子
田中久美子

秋さびし牛の黒眼に見詰められ
植田とよき

珈琲を挽く三伏の朝かな
藤田銀子

家路とは彦星と遠ざかること
吉田林檎

二人ゐて気怠き午後のカンナかな
石山紀代子

ゆで卵こつんと叩く秋意かな
米澤響子

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

昼顔や保健室では多弁とか
井出野浩貴

水澄むや川底浅く浮き上がる
松井秋尚

木雫の肩に項に涼新た
井内俊二

新涼の社にマウンテンバイク
小林月子

脈をとる指は三本秋の雨
天野きらら

芋虫に飛ぶなど思ひ寄らぬ事
井川伸造

そのひとつ夫の星なり星月夜
青木桐花

夏越会の痩せぽつちの猿田彦
島田藤江

裏山の裾を啄む鶉かな
山本智恵

仲秋の上野地階にゴッホの黄
吉田林檎

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

みづうみにうつらぬ高さ夏つばめ
井出野浩貴

天気のよい日には燕は空高く舞い、あまりよくない時には低く飛び回ることは経験的にも知るところである。私の中等部のかつての同僚で故加藤一男さん(通称ワンマン)はすぐれた教育者であり、中等部では山岳部の顧問として長いこと生徒に親しまれた、いわゆる強持ての人で、授業もクラブ活動も厳しいことで知られていた。その加藤さんの著書に『お天気占い入門』があり、私ははじめて燕の飛び方の真実を知った。つまり天気がよくて高気圧の時は、燕の食物である羽虫の類が高く飛び、雨模様などの時は羽虫の類は低く飛ぶ。だから当然餌をあさる燕の飛び方も変わってくるというのである。この句の燕は湖面に映らない高さで飛んでいるというので、どちらの空模様に近いのかは分からないが、いずれにせよある高さ(それは水面に映らないほどの高さ)を飛び交っている、というのである。「うつらぬ高さ」というやや曖昧な表現で事実を描写した一句ということになろう。

 

絵のひとの見下ろす視線冷やかに
松井秋尚

美術館か古城などに掲げられた肖像画。描かれた女性は確かに美しいけれどどこかに冷たさを含んだ視線である。それが主人公の為人ひととなりをストレートに伝えている。

 

この字に一族集ひ鳳仙花
井内俊二

昔の町村には「大字」と「小字」という区画名があった。この句、一つの字に同じ苗字を持った家が集まっているというのである。同族の人が一緒に移り住んで来たとか様々な理由はあるだろうが、今でもそういう土地がないわけではない。

 

万華鏡  行方克巳

冷やかに色を変へけり万華鏡

寝そびれて夜長を託つ灯なりけり

砲丸のやうな手触り長十郎

秋風や鯛焼いつも二つ買ふ

ゆつくりと歩めば流れ秋の水

新涼のピアノに写りゐるばかり

風船葛手に手に別れまた楽し

蓑虫の自前のサックドレスかな

 

のちの更衣  西村和子

白さめし百日過ぎしさるすべり

狩り終へし葡萄棚より昼の虫

鳴り満てり嵐のあとの虫のこゑ

裂きて入れ丸ごと放り芋煮会

少年が指さし増やす秋の星

袖通さざるままのちの更衣

秋の暮ひとりに慣れしとは言へど

夕暮に似たる夜明や初しぐれ

 

◆窓下集- 11月号同人作品 - 西村 和子 選

不忍池を涼しく父の下駄
藤田銀子

スイカ丸ごと空色のエコバッグ
志磨 泉

しかうして川面は闇に祭鱧
井出野浩貴

金魚にかまけ妻の愚痴遣り過す
岩本隼人

母在すごとしなすびを煮てをれば
井戸ちゃわん

随いてくる蝶へ与ふるもののなく
植田とよき

かなかなや公園の子等もうゐない
前山真理

ふつと沸きはたと止みけり蟬しぐれ
石山紀代子

梅雨深し賛美歌の声裏返り
江口井子

雨の音ほのかにぬくし春を待つ
栗林圭魚

 

◆知音集- 11月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

空蟬の登る姿勢を崩すなく
松井秋尚

大阪の風生ぬるき茅の輪かな
津田ひびき

湯灌了へし顔の和める涼新た
松原幸恵

黙禱の一分長し原爆忌
江口井子

生身魂腕立て伏せをもう五回
中川純一

名を呼べばほうたるひとつついて来る
平野哲斎

蟻が運ぶ大道具めく蟬の羽根
中野トシ子

生身魂孫のやうなる美人秘書
栃尾智子

コンクリにコンクリ色のなめくぢり
田中久美子

梅雨寒し名刺の浮かぶ小名木川
田代重光

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

託けて出不精となる残暑かな
松井秋尚

何だかんだと言いわけを作ってどこかに遊びに行こうとするのが普通のことなのだが、この句の主人公は逆に家に居る口実を色々と作るのである。勿論残暑が厳しいこともその一つであるが、それだけではないだろう。もともと出て歩くのはそれ程好きな人でないことは確かなのだが、用を足して欲しいと思う側からすれば、それも困ったことなのである。多分いま話題に事欠かないコロナウイルスなどが託ける要因なのでは、と推測されるのである。

 

盆僧の猪首のでんぼ見てしまふ
津田ひびき

「でんぼ」とは関東ではあまり聞き慣れない言葉であるが、「できもの」とか「こぶ」の意味らしい。下五の「見てしまふ」から考えてこの句の場合、できものの意と取るのが正しいだろう。いかにも尤らしい顔をしてお経を上げている坊さんなのであるが、何だか不潔な感じがしてきたというのだろう。只のこぶであったら下五が活きてこない。

 

汝の骨は誉められ吾は夏痩せて
松原幸恵

作者は最近ご夫君を亡くされた。そのお骨揚げの折、参会した人々が故人の遺骨がいかにもがっしりしているのをまのあたりにして、口々にそのことを言ったのだろう。もちろん喪主である作者を少しでも慰めようという心からである。長い闘病を看取っていて、作者はすっかり夏痩せしてしまっている。しみじみとしたペーソスが感じ取れる一句である。

 

夏炉焚く  行方克巳

母の庭荒れしままなる帰省かな

そのことに誰も触れざる帰省かな

夏炉焚くしばらくここにゐて欲しく

昨夜の蛾の吹かれ覆らんと歩む

あけたてのガラス戸に秋立ちにけり

荘出でし三歩に霧の深さかな

ほふしつくほふしつくとぞ昼暗し

月見草あしたの花として開く

 

鳳仙花  西村和子

夜蟬しづまらず疫病衰へず

秋の蟬午後は頭蓋に響きけり

アイスティー薄荷はかなき花うかべ

隼人瓜しやきしやき刻み口八丁

旋頭歌は覚え難しよ草の花

鳳仙花白は色水すきとほり

鶏小屋も縁も手作り鳳仙花

石けりに倦めば缶蹴り鳳仙花

 

◆窓下集- 10月号同人作品 - 西村 和子 選

人種的公正主張夏の夜
谷川邦廣

つきあうてやるか天道虫の擬死
井出野浩貴

峰雲を背負ひて育てて羅臼岳
中川純一

天道虫星二つとは大胆な
高橋桃衣

七月や心岬に遊ばせて
米澤響子

冷やつこ今日の夕餉も独りぼち
山田まや

相部屋の誰も目覚めずはたた神
植田とよき

洗面器ひとまづ金魚遊ばせて
井戸ちゃわん

お金持ち夢見る少女小判草
前山真理

くりかへしファーブル読む子梅雨深し
牧田ひとみ

 

◆知音集- 10月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

母ほどの美人に遭はず目高飼ふ
中川純一

サンドレス揺らし電話にうなづける
𠮷田林檎

裏木戸を開ければ異界七変化
原田章代

アイスキャンデー母さんに又かじられて
井川伸造

梅雨寒やテレビ会議の面やつれ
中田無麓

格納庫開くかに翅天道虫
谷川邦廣

廃線のレールここまで草いきれ
島田藤江

片かげりよりチーターの窺へり
小林月子

蚊帳を吊る母に纏りつきしころ
岡村紫子

軽鴨の首の生傷目の野生
岩本隼人

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

兄弟の喧嘩にラムネ割つて入る
中川純一

つまらないことで年の近い兄弟は喧嘩をするものである。
弟の方がうんと負けず嫌いだと、争いはなかなか収まらないで、激しい取っ組み合いになったりするのである。そういう時に、二人にとって親友である少し年長な子が仲裁に入る。
たまたま飲みかけていたラムネ壜を摑んだままで、「よせよせ」とばかり二人の間に割って入ったのだ。勿論「入る」の主語はラムネではなく、仲裁に入った人物である。手際よく省略された一句。まさか、ラムネ壜を割って喧嘩に加わったなどと考える人はいないでしょうネ。

 

毒のなき言葉寂しきゼリーかな
𠮷田林檎

ゼリーのスプーンを口に運びながら、当り障りのない会話をしている二人ーー。
結局その時間は只の空しい時間のロスとしか思えないのである。毒という語は真実ということに通じる。詩もまた然り、毒のない俳句はつまらない。

 

黒揚羽むかしの彼とすれ違ふ
原田章代

私の大学生の頃のこと、池田弥太郎先生が、黒揚羽に遭遇したその直後、折口信夫の訃報が届いたという話をしたことがある。林中で突然目交を過って飛んでいく黒揚羽は、何か魂を寒からしめるものがある。飛び去った黒揚羽にふと昔の男を感じ取った作者の思いも、それに通じるものがある。
黒揚羽は、すれ違っただけで引き返しては来ないーー。

 

ゲルニカ  行方克巳

凌霄の火柱に蝶あそびけり

鉋屑の風こそばゆき三尺寝

裸子に父の胡坐の玉座かな

人買の目をして妻の裸見る

ゲルニカの馬が嘶き昼寝覚め

化けて出れば逢ひたきものを半夏雨

泳ぎけり無明長夜に抜手切り

晩緑やあと十年で片が付く

 

大禍時  西村和子

鮎茶屋の屋根草そよぐ丈となり

背越鮎京もここらは川滾ち

雨音にまさる瀬音や鮎を焼く

鮎の骨抜きて指まで水白粉

騙す気はてんから無きに天道虫

不思議とも思はず無邪気天道虫

初蟬の気息奄奄大禍時おおまがどき

胸奥へ鬼哭啾啾夜の蟬

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 西村 和子 選

鳰の浮巣天地創造幾日目
井出野浩貴

しみじみと一人なりけり青時雨
石山紀代子

利休忌に手向くる一枝黒椿
山田まや

細やかに庭石菖の風刻み
大橋有美子

クレマチス薄紫は母の色
小池博美

お屋敷の螺旋階段薔薇盛り
林 良子

北斎の夕立写楽の男ゆく
井内俊二

久女伝じつくり読めば梅雨深し
松枝真理子

葵橋浄むるごとく青しぐれ
野垣三千代

わがままに生きて日傘のフリルかな
永井はんな

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

ぼんやりと異国のニュース昼寝覚め
くにしちあき

夏蒲団風に晒して冷ましけり
石山紀代子

上水は江戸へ真つ直ぐ夏木立
植田とよき

蘭鋳のスパンコールの乱反射
中津麻美

籠居の耳聡くなり若葉風
島田藤江

かき氷みたいな色のキャベツかな
國領麻美

聞くとなき隣の話暑苦し
高橋桃衣

蚕豆や鈍感力といふものも
志磨 泉

子を抱いて離れの母へ柚子の花
大橋有美子

西瓜には豚の尻尾のやうな蔓
柊原淑子

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

十薬にとがめられたる立ち話
くにしちあき

家々に水道のなかったころ、共同の井戸の周りに集まっての女たちのおしゃべり(井戸端会議)は日常茶飯事のことであった。色々と情報を交換するという場でもあり、懇親の場ともなっていたのだ。さて、家路を急ぐ夕まぐれ、たまたま出会った知人との立ち話。すぐに終るはずがなかなか放免してはくれない。他人の悪口なども出ようというもの。十薬の花が白々と咲いている足元に目を落としつつ早く切り上げなければと思う。この句、十薬でなければ活きてこない。

 

金魚見る体だんだん小さくして
中津麻美

水槽の金魚を眺めている時は、いうならば人間目線である。はじめに何匹かの金魚を何となく見ていたのが、とある一匹に興味を持つ。すなわちその一匹の金魚との対話が始まるのである。人間目線がだんだん金魚目線になってくる。中七下五はその時の作者姿勢であり、心のかたちでもある。

 

春の地震かそかなるものいま過ぐる
島田藤江

寝ていても、テレビを見ていても地震を感じると、私はすぐに部屋の片隅に吊ってある江戸風鈴を見る。まれに本当の地震でもないのに体に何か揺れを感じる時がある。そういう時は風鈴の舌はピタッとして動かない。もう地震の揺れが私の体から去ったあとでも、風鈴の舌が微妙に揺れていることもある。さて、地震の微弱な揺れが遠ざかった今、作者の体を過ぎてゆく、このかすかなる揺れは何なのだろう。

 

薄 暑  行方克巳

西口の交番前の薄暑かな

軽暖や昔アジトの紀伊國屋

ソーダ水あまさず嘘の聞き上手

紫陽花を描き日月描きけり

梅雨の月飛白のごとく明るめる

浮草にべつたり座つてみたくなる

青胡桃すなほになれぬ奴ばかり

雲の峰にも頽廃と澎湃と

 

さくらんぼ  西村和子

助手席に乗つて来たりしさくらんぼ

粒揃ひとは箱入りのさくらんぼ

コバルトの鉢も喜ぶさくらんぼ

ひと粒に光輪ひとつさくらんぼ

濯がれて笑ひさざめきさくらんぼ

桜桃の首飾りより頬つぺ照り

モップかけながらつまんでさくらんぼ

さくらんぼ洋酒に浮かべ夜の書斎

 

◆窓下集- 8月号同人作品 - 西村 和子 選

揚雲雀濁世の吾を置き去りに
江口井子

春寒しハグも握手も禁じられ
佐貫亜美

囀や人間界は息潜め
井戸ちゃわん

産土の誉れの藤を見にゆかむ
黒須洋野

抜かずおきたれば浦島草なりし
高橋桃衣

子供の日僕は元気と電話口
國司正夫

飾兜赤子の笑みの無敵なる
植田とよき

父の庭荒るるにまかせ桜草
井出野浩貴

桜蕊降る降る休校続きけり
小倉京佳

鎮めおく神馬や競べ馬中止
野垣三千代

 

◆知音集- 8月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

ブランコの赤い服揺れ止めば婆
山田まや

花は葉に病院の建つ話など
若原圭子

春昼の眉ふと動き忿怒佛
島田藤江

ステイホームや初物のサクランボ
羽深美佐子

妹は老いてよき友新茶汲む
岡田早苗

またぞろと熱の予感や走り梅雨
五十嵐夏美

海へ行くあては無けれど夏近し
片桐啓之

かくしやくと三百齢の松の芯
立花湖舟

惜春や鍋にかたこと茹で卵
津田ひびき

水底の震へ止まぬは蝌蚪生まる
藤田銀子

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

咫尺千里とぞ春愁のマスクして
山田まや

咫尺千里しせきせんり」とは、ほんの僅かの距離も場合によれば千里も離れて思われるということ。言葉には出していないけれども、この句はコロナ禍の現状を嘆いた句である。会いたい人には会えず、行きたい所へも行けず、ひたすら家に籠ったままの生活を余儀無くされている毎日である。「春愁のマスク」ということで、恋の気分を少し絡めた句作りになっている。

 

遠足のリュックを突く鴉かな
若原圭子

遠足の子供達が、皆のリュックを芝の上に積んで、思い思いに遊んでいる。すると鴉がそのリュックを突ついて、中の食べ物を狙っているというのである。鴉の知恵にはほとほと手を焼くことがある。私もある朝、ビニール袋のゴミをちょっとの間ベランダに出しておいたら、声も立てずに鴉がやって来てあたり一面ゴミだらけにされた。

 

嫁に行く蘭の鉢など置去りに
羽深美佐子

それまで身を固める気配などこれっぽっちも見せなった娘が、にわかに結婚相手を連れてくると、あれよあれよという間に嫁に行ってしまった。娘の部屋も片付いていないし、どこか急な旅にでも出たような感じである、好きで育てていた蘭の鉢もまるで置き去りにされたようーー。

 

ダービー  行方克巳

見極めて新茶の緑すすりけり

ゆゆしげに古びたるなり古茶の壺

青芝の青のかぎりを返し馬

青芝の起伏耀ひファンファーレ

ダービーの穀象に鞭打つごとく

ダービーのスローモーションより抜け出す

ダービーに騎乗の昔吶々と

ダービーの夜の負犬になってゐる

 

金魚鉢  西村和子

走り茶の色佳し選句捗りし

注ぎ分けて新茶の滴仏にも

散り浮きてよりえごの木と気づきたり

人通り旧に復さず若葉冷

花了へし藤棚鬱をかたどれり

金魚雅び緊急事態など知らず

忘れられ時々愛され夜の金魚

飼ひ殺しとは罪深し金魚鉢

 

◆窓下集- 7月号同人作品 - 西村 和子 選

春マスク同士一瞥かはすのみ
中川純一

淋しさはうりざね顔の官女雛
井出野浩貴

校門のまだ開いてゐる夕桜
島田藤江

春の鴨どれも一癖ありさうな
井内俊二

砂の塔砂場に残り春の夕
植田とよき

男らは腰まで浸かり浅蜊採る
大橋有美子

春の雪夢二の墓の肩丸し
影山十二香

手秤の重み十全秋茄子
栗林圭魚

交番のここより銀座春の風
國司正夫

何もかも干してあるなり団地春
𠮷田林檎

 

◆知音集- 7月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

氷解く国家瓦解の音を立て
田村明日香

芽起こしの風届かざる棺かな
志磨 泉

ふるさとに顔突き合はせ春炬燵
植田とよき

チューリップ赤いワンピースは嫌ひ
相場恵理子

目を一寸合はせそれきり卒業す
國領麻美

豆の花あなどりがたくあでやかに
中川純一

校舎より洩るるオルガンヒヤシンス
井川伸造

夜桜やこの世あの夜の裏返し
原田章代

パグ犬の鼻のちんくしや桜咲く
津田ひびき

節くれし手より楤の芽五つ六つ
染谷紀子

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

医学書に未完の頁フリージア
田村明日香

どのような分野の医学書か分らぬが、その最終章ははっきりと結論付けず、後考を俟つ形で終わっているというのである。
自然科学の歴史には、それまで揺るがし難い真理とされていた事象がいとも簡単に覆されてしまうということがままある。医学なども日進月歩である現在、そういうことも多かろうと思う。この句は、今世界に様々な影響を及ぼしているウイルス禍から発想された句であろう。その事を心に留めて読むと、一句の心は通じ易いが、そういう事実と切り離してみても理解できる作である。フリージアという季語が、重過ぎずに軽過ぎないペーパーウェイトのように働いている。
ところで、最近の投句の中で最も多いのは新型ウイルスに関する句である。俳人とて社会一般と人々と何ら変わるところはあり得ないので、コロナ禍は最も気に掛かることであるのは間違いない。しかし、それが即俳句になるかというと問題である。私は常日頃、「何を詠まなけばならないのか」ではなく、「何をどう詠めばいいのか」であると言い続けてきた。当面する疫病も、どう詠むか、大いに工夫を必要とするテーマなのである。

春水の溢るるやうに父逝きぬ
志磨 泉

天寿を全うする、ということが言われる。作者の父君もそうであったのだろう。それが「春水の溢るるやうに」という美しい表現になった。遺された者にとって死は辛いものである。敏郎先生の長男、星野直彦さんは三十五歳でこの世を去った。慶応中等部での私の同僚であった。私の愛する古今亭志ん生の息子志ん朝は、まさにこれから脂が乗り、志ん生の芸風に拮抗してゆくだろうという時に病魔が襲った。中村勘三郎の芸は名人に近付きつつあった。彼は、踊りも芝居も「ウマすぎる」という苦言すらあった程だ。〈花道といふ道半ば冬の月 克巳〉。私も父母や祖父母の死を見送ってきた。「春水の溢るるやうに」とは本当に心が浄化される思いである。

古物商けふは居るらし春の雨
植田とよき

いつ覗いても留守の日が多いのだけど、今日はめずらしく居るらしい。店の奥に灯が点っている。そこに座っている主人公の人となりが、これだけで何となく理解できる。俳句の魅力の一つ。

 

落 椿  行方克巳

餌くれぬ東男に春の鯉

その一枝われに垂れたり紅しだれ

薦抽いて牙なす芭蕉の芽なりけり

累代の墓累々と落椿

くれなゐのみじろぎしんと落椿

病めるなりこのもかのもの山桜

老人の足取いつか蒲公英黄

たんぽぽの絮の十全吹き散らす

 

ペ ン 皿  西村和子

春寒し地の病むゆゑか我のみか

春寒や心最も強張れる

いつの間にペン皿溢れ春深し

花水木並木つながり町若き

囀や人影消えしビルの谷

島深くマリア観音桃の花

御堂の鍵農婦に預け桃の花

火入れ待つ窯場に一枝桃の花

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 西村 和子 選

初蝶の胎蔵界を抜け来しか
米澤響子

尼寺の一坪畑若菜摘む
山田まや

御所の梅老いも若きもふだん着で
中田無麓

夕空の海原めきぬ春隣
井出野浩貴

さつきから第九ハミング去年今年
田中久美子

重水素三重水素冬の水
谷川邦廣

蕗の薹転げ出でたるやうなるも
大橋有美子

休日の朝の工事場霜の花
植田とよき

雛飾るゴミ収集車好きな子と
井戸ちゃわん

追ひ越さぬ回転木馬あたたかし
田代重光

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 行方 克巳 選

雨粒を零さず枝垂桜の芽
植田とよき

病棟のヒポクラテスの木の芽吹く
小林月子

行く雁の声や泥炭開墾地
伊藤織女

やり直す勇気湧きたる野焼かな
國司正夫

永き日を話し疲れて母眠る
乗松明美

パトロンは明治の男花ミモザ
𠮷田泰子

あふみかなかすみのなかに虹たちて
竹中和恵

春風と入つてきたる往診医
清水みのり

教室に蜂来てありつたけ騒ぐ
國領麻美

野焼の火匂へり野菜直売所
中川純一

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -行方 克巳

糠雨を蹴散らすやうに囀れる
植田とよき

小鳥の囀りが春季なのは、繁殖期を迎えた雄鳥が雌を求め、また縄張りを主張して声を尽くして鳴く季節が春だからである。それまで木々の陰に鳴いていたのが人の目に触れるようになるのもこの頃だ。雨滴をまき散らすように勢いよく羽搏いて鳴き続ける小鳥の生き生きとした姿態が感じられる。

縁側にお茶を呼ばれて雛の家
小林月子

もう戦後ではないなどと言われ、農村などにもゆとりが生まれるようになった頃の、のんびりした情景が彷彿とする。ちょっとした用事があって立ち寄った家で、お茶を振る舞われた。縁側という場所はお婆さんが日向ぼっこをする場所でもあり、手軽な応接所でもある。開け放してある座敷には雛壇が飾ってある。客は縁側からその雛をほめながらお茶の馳走にあずかるというわけだ。

薄氷飛び越えて行く踏んで行く
國司正夫

登校時の子供でもあろうか。昨日までの泥濘道の処々に薄氷が張っている。その薄氷を飛び越えたり、わざわざ踏むつけて壊したりしながら彼は小走りに急ぐのである。「飛び越えて行く」「踏んで行く」のリフレーンが、子供の動作を実に生き生きと把握している。