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一昨日の冬  行方克巳

人影のさして萍紅葉かな

紅葉且散る石のうへ水のうへ

紅葉山夜々の漆黒塗り重ね

まなうらの黄葉濃紅葉ねむりても

日めくりの一昨日の冬立ちにけり

筏なししがらみなして散紅葉

綿虫や煤け給ひて祇王祇女

冬紅葉むさぼりし夜の盗汗かな

 

無 力  西村和子

冬ごもり根菜刻む摺る叩く

金星を吊り黄落の葡萄棚

冬草を被り果樹園養生中

石蕗の花脚下照顧といふことを

短日や煮炊忘れてもの書けば

とり消しの線の濃淡古暦

灯寒し誰も帰つてこない家

極月やもとより俳句無力なる

 

鷹の影  中川純一

木漏れ日踏み落葉を踏んでついてゆく

追ひ越してゆきしは鷹の影ならむ

いつ来てもいつもの守衛木の葉散る

茶の花の咲けば応へて水光る

毘沙門天訪へばいくたび時雨紅

露天湯の足をくすぐり散紅葉

冬朝日天橋立濃くしたる

冬蜂と天橋立股のぞき

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

秋日和通勤電車にて入院
松井秋尚

きちきちの跳んで将軍流離の地
井出野浩貴

鮭遡上石狩湾を引きしぼり
佐藤寿子

名月や地球大きな観覧車
橋田周子

風を食む埴輪の馬や天高し
吉澤章子

鳥渡る薄目をあけて赤ん坊
中野のはら

秋の蠅飛ぶこと忘れ俎に
小島都乎

尾を立てて犬も潜れる茅の輪かな
松井洋子

追憶は供養なりけり温め酒
佐瀬はま代

河童出る沼のほとりの曼殊沙華
吉田しづ子

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

秋刀魚焼く日曜暮るるむなしさに
井出野浩貴

色鳥やバター香らせ家を守る
志磨 泉

月今宵鉛の兵隊踊り出す
くにしちあき

鰯雲東京タワーピンで留め
栃尾智子

ひよんの笛吹きて淋しき男かな
影山十二香

西瓜切り並べて野外コンサート
山田まや

ワセリンを戸棚に探す夜寒かな
松枝真理子

虫の声違へ玄関勝手口
月野木若菜

水玉のスカート咲かせ夏座敷
加藤 爽

芋虫のどくんどくんと進みゆく
磯貝由佳子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

虫の夜の孤島めきたる机かな
井出野浩貴

秋の夜更、虫の音を聴きながらひとり机に向かっている。本を読んでいるのか、ものを書いているのか、俳句を作っているのかさまざまに想像されるが、いずれにしても孤独な作業なのである。その思いがいつしか虫の音に取り囲まれて一人だけ孤島にいるような気がしてきたのだ。夜更に虫の音しか聞こえてこないという発見はよくあるが、そこから更に踏み込んで、「孤島めきたる机」と焦点を絞り込んでいるところがこの句のポイントだ。家でも部屋でもなく、机を孤島と感じているのは、孤独な作業をしている人ならではの実感である。発想はよくあることでも、どこまで深めて作品にするかが大切なのだ。

 

先づ手熨斗かけて羽織りぬ秋寒し
影山十二香

「秋寒」「肌寒」「うそ寒」「そぞろ寒」「朝寒」「夜寒」などは、寒いという字が使われているにもかかわらず、すべて冬ではなく晩秋の季語である。この句はその体感を実に巧みに詠み上げている。そればかりでなく、「手熨斗」「羽織る」といった美しい日本語を適切に用いている。古い言葉のようだが、アイロンをかけるまでもなく手で畳み皺を伸ばすとか、羽織を着るのではなくカーディガンやショールを上から掛ける場合にも、こうした言葉は自然に使われている。この句を音読してみると、実生活では忘れられているような佳き日本語を、俳句の上で生かしたいとつくづく思う。

 

落栗や前世の記憶よみがへり
松枝真理子

飛躍のある不思議な作品だが、私達の脳内や胸中にはよく起こることなのではないか。毬栗が落ちた音、あるいは落ちている光景にふと古い記憶がよみがえる、あまりにも覚束ない記憶なので、もしかしたら前世のことだったのかしら、と思う。それにしても鮮明によみがえるものがある。
こんな突飛なことは他人に話すことではない。そんなとき俳句になるのだ。季語が動くのではないかとか、共感を覚えないとか言われるだろうが、そんなことは恐れなくていい。理屈ではなく、人に納得してもらうものでもない。詩的感興にはそんな特殊な領域があって、わかってもらえる人の心には響くのだ。

かりがね  西村和子

水引の点綴暮色はねのけて

ひとつづり水引草の気息凝り

木犀の香や門掃きの音につれ

終刊号追うて遺句集十三夜

初雁や持ち重りたる明日の糧

先達のたちかはりつつ雁渡る

撓みつつ遠ざかり消え雁の棹

ひと枝に六七八個榠樝の実

 

葡萄に種  行方克巳

螢の夜生前葬のはなしなど

螢火や千夜一夜のひとよにて

明滅の滅を数へて螢の夜

秋の夜やダミアの淵に竿さして

葡萄に種みそつ歯の誰彼となく

完膚なきまでに踏みつけ煙茸

二十五時くるみわり人形と胡桃

大拙といふ石ひとつ笹子鳴く

 

双頭の竜  中川純一

秋晴の麻布のここも大使館

色羽をつんと頭に小鳥来る

長き夜やされば男の料理など

茸飯帰りの遅き娘待ち

スカートのごとく注連縄銀杏散る

渓風に山家の数の女郎蜘蛛

冬連れてくる双頭の竜の雲

騒乱の雀のごとく渓落葉

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 中川 純一 選

いつの間に更地となりし西日かな
井出野浩貴

今朝の秋補聴器置けば小貝めく
山田まや

通院の夫に購ふ黒日傘
前田沙羅

一粒の力を信じ青葡萄
林 良子

葛の花引けばくれなゐこぼしけり
鴨下千尋

駅員と話してをりぬ帰省の子
吉澤章子

東京にいまだ郡あり葛の花
帶屋七緒

鍼灸に身をまかせたる溽暑かな
黒須洋野

み吉野の降りみ降らずみ葛の花
川口呼鐘

秋口の役所の壁に市民の絵
笠原みわ子

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 西村和子 選

ねこじやらしヘッドライトに騒ぎ出し
大橋有美子

払へども払へども汗喪主なれば
井出野浩貴

なまなかな風には媚びず萩の花
中田無麓

隙あらば絡み付きたり灸花
栃尾智子

白雲をぐんぐん潜り鷹渡る
前山真理

小望月雲の波間の浮かびけり
小倉京佳

茎太く蒟蒻育ち夏旺ん
金子笑子

絵日記の雲は怪獣蚊遣り焚く
石原佳津子

人の子を預かり吾子を預け夏
津野利行

好物のメロンどつかり据ゑ一人
山田まや

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

黒南風や焦げ臭き音してきたる
大橋有美子

聴覚で捉えたものを、嗅覚で表現している。芭蕉が聴覚で捉えたものを視覚で表現した句は有名である。その点で、作者なりの挑戦が感じられる句だ。しかも梅雨どきの重たい南風を身に受けて、耳にした音が快適どころか異常な印象を受けたのである。季節の実感に支えられているという点でも、奇抜さを狙ったばかりの句ではないと言えよう。

 

目を凝らしたれば二羽増え雁渡る
前山真理

鷹の渡りを私は見たことがないが、この句を読んで現実味を感じた。鷹の群れに気づいた時点では「見る」であるが、「目を凝らしたれば」ということは、注視したということだ。するといままで大雑把に数えた数よりも二羽多かった。「増え」と言っているが、現実には途中から加わったのではない。見る側の姿勢によって数が増えたという発見が面白いのである。
私達は俳句を作るとき、大まかに見るだけでなく、凝視しなければならない。「言葉が浮かんで来るまで見つめていなさい」とは清崎先生の教えである。

 

休暇明黒板全幅使ひきり
小倉京佳

比較的新しい季語である「休暇明」を用いて、夏休み明けだということがすぐにわかる。講師という作者の職業によるものだろう。ながい休みが終わって、最初の授業に黒板の全幅を使い切ったとは、我ながら頑張ったとか、張り切っていると、改めて発見したのだ。休暇中、使われていなかった黒々とした黒板に、チョークの文字がくっきりとして見える。
事実は最近流行のホワイトボードにマーカーなのかもしれないが、鑑賞するときは黒板に白墨でありたい。板書する先生の力の込め方で、生徒は熱意と気迫を聞き取ったものである。

月幾夜  西村和子

    悼 深見けん二先生
かんばせの老いて涼しき大人うしなりき

小望月かの世の句座も始まるか

月しろや修道院の空不穏

陰膳の整ひたりし月今宵

名月やたまの帯なす六玉川

月明や地上に今も神隠し

冷蔵庫ひらけば灯るマスカット

子別れの鴉朝より声荒げ

 

生身魂  行方克巳

うそぶいて昔男や生身魂

なにがしの受領たるべく生身魂

ものを言ふ口元ほぐれ生身魂

痛いところどこにもないと生身魂

ささめごと昨夜のごとく生身魂

陰撫するごと墨磨れと生身魂

チョコレートはゴディバにかぎり生身魂

てんしきの五連発とは生身魂

 

濡れ縁  中川純一

灯りたる電車が滲み秋の暮

秋蝶の翅に大きな目のふたつ

糸瓜忌のわが濡れ縁の日差かな

ちゅと飛んで蠅虎はえとりぐもの馴れなれし

虫すだく教員室はまだ灯り

就中新酒の中の冷おろし

渡り鳥天気予報の空を飛ぶ

秋風や雲も背伸びを思ひきり

 

◆窓下集- 11月号同人作品 - 中川 純一 選

秋日傘今日の一歩へ開きけり
大村公美

送鐘一打のしがみつくやうに
米澤響子

風鈴や遺品と芥選りわけて
井出野浩貴

原爆忌都庁の窓を雲疾く
小倉京佳

夢二忌や女将と呼ばれ五十年
金子笑子

夏雲やコタンに残る蝦夷錦
佐藤寿子

素通りの縁切寺の蚊にさされ
永井はんな

菊花展巴の錦艶やかに
平野哲斎

船頭の顎で指したる浮巣かな
前田星子

梅雨明くる宵山の空押し広げ
板垣もと子

 

◆知音集- 11月号雑詠作品 - 西村和子 選

噴水の起承転結見届けぬ
志磨 泉

チボー家のジャック遥けし夏休
井出野浩貴

サングラス外し海風吸ひ込みぬ
くにしちあき

動物園何処にゐても椎香る
大橋有美子

裕次郎灯台目指し船遊び
栃尾智子

烏瓜秘技を尽して咲きにけり
米澤響子

草むしり不器用なれど几帳面
中津麻美

亀の子が玄関先に雨あがり
井戸ちゃわん

型紙を合はせじょきじょきあつぱつぱ
磯貝由佳子

嫌はれてしまへば気楽サングラス
天野きらら

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

帰省子の披露上腕二頭筋
志磨 泉

「上腕二頭筋」とはいわゆる力瘤。夏休みに久々に帰ってきた息子さんが、家族みんなに「見て見て、すごいだろう」と腕をあらわにして力瘤を見せつけているのだ。クラブ活動かアルバイトの力仕事か、親元を離れて数か月過ごした間に見違えるように日に焼けて逞しくなった我が子を見あげているのだ。当人は無邪気に自慢しているだけだが、親にしてみればあんなにひ弱だった子がと思うだけで感無量だ。
こうした光景はどこの家でも見られるかもしれないが、作者の人生にとっては今しか詠めない句だ。自分が育てた息子であるからこそ、小さい頃の思い出が二重写しになるのだ。また、親元を離れて過ごすことが初めての我が子であれば、親の心配は尽きない。

 

丹精の枇杷に疎漏な袋掛け
栃尾智子

町中でよく見かける枇杷にわざわざ袋掛けはしないので、園芸を仕事にしている人の枇杷かとも思われるが、最後まで読んでみると、やはり素人の庭先であることがわかる。それもたわわになっている枇杷ではなく、庭に数えるしかなっていない枇杷であろう。枇杷の花が咲くのは冬。それから何か月も経ってから実がなるのは、果物の中でも珍しく気長だ。その間、今か今かと実が太るのを楽しみに肥料をやったりしていたのだろう。やっと実が大きくなってきたというので、大事を取って袋掛けまで施した。それが疎漏というのではあまり役にたちそうにない。そんなところにおかしみを感じる句である。
「丹精」という言葉と「疎漏」という表現の対比がもたらす俳諧味である。

 

眼に効くと聞けば毎日パセリかな
井戸ちゃわん

家居が続くこの頃、人々の関心は内へ内へと向かっている。家中を片付けたり、健康食に凝ったり、免疫力を高めると聞けば買い込んだり。私達庶民の日常と人情を実によく表している句だ。テレビか新聞でパセリが眼に効くと知ったのだろう。老眼が気になってくる年代には、聞き流せない情報だ。折しもパセリが大安売りだったのだろう。たくさん買い込んできたものの、新鮮なうちに食べなければ意味がない。毎日食卓に上ることになる。だれもが思い当たることなので、この句から湧き上がる笑いは自嘲も含まれている。
私もスーパーでたくさんのパセリを買い込んだが、みじん切りにして容器に詰めて冷凍したところ、長いこと使えることに気付いた。ぜひお試しあれ。

乙 張  西村和子

秋蟬のとほき満ち干の未明より

供香よりひと日始まる濃龍胆

秋蟬の乙張めりはりも失せ呂律失せ

小気味よく水弾きけり秋茄子

束ねてもコードくねくね秋暑し

おしろいの花や病める児覗きをる

窓掛がゆらぎたるのみ家の秋

無花果や婚姻色を秘めゐたる

 

おしいつく  行方克巳

くびくくり坂の向日葵くびくくり

陸続として向日葵の絞首刑

朝顔や朝つぱらから死のはなし

テーブルの一点舐めて秋の蠅

ふと苦き思ひよぎれり桃を剥く

少しづつ夜の崖崩れ葛の花

今生のおせん転がしおしいつく

宗論のはてのだんまりおしいつく

 

子目高  中川純一

子目高を数へて話そつちのけ

一週間だけの長幼目高の子

朝顔を叩きゐし雨小休止

秣干す日高の秋日鋤き込んで

均されし空地に呆け猫じやらし

シャツの背にすがる啞蟬何とする

長雨に飽いてしもたと蚯蚓鳴く

新涼や母もたのみし手摺棒

 

◆窓下集- 10月号同人作品 - 中川 純一 選

一つ事念じて茅の輪くぐりけり
前田沙羅

馬の仔の膝のびのびと風の中
大橋有美子

形代に我が名楷書で記しけり
村松甲代

顔見えぬ乍らの会釈木下闇
村地八千穂

母の日を羨む父に父の日来
三石知左子

聖五月デルフト焼の藍の濃く
𠮷田泰子

梅雨深し検査ベッドに横たはる
池浦翔子

蜥蜴現る鎌倉殿の化身なり
藤田銀子

鬼やんまの目もて私を見てゐたる
山本智恵

汐の香の髪を解きてサングラス
橋田周子

 

◆知音集- 10月号雑詠作品 - 西村和子 選

スキップの子とすれ違ふ緑雨かな
吉田林檎

水の星讃へて鳰の浮巣かな
井出野浩貴

腸の捻れ戻りぬ青嵐
岩本隼人

黄金週間急に子の来てすぐ帰る
小池博美

嘘すこし混ぜるも本音半夏生
藤田銀子

聖堂の柱ひんやり日の盛り
くにしちあき

指図する母のいまなき盆用意
清水みのり

更衣老い先有りと疑はず
石田梨葡

夏来たり歩道橋より町眺め
立川六珈

草を引く腰をのばせばまだ半ば
平岡喜久子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

氷菓食ふ有給休暇取れし日は
吉田林檎

この句のポイントは最後の「は」である。この助詞一つで、作者の通常の暮らしぶりを語っているのだ。働き盛りの年代の人々は、有給休暇といえどもなかなか取れないのが現状だ。久しぶりに有給休暇が取れた日、アイスクリームを買って食べた。そのことが忙しい自分に対するご褒美でもある。贅沢なケーキや高価なワインなどではなく、「氷菓」であるという点に非常に親しみを覚える。欧米社会のようにバカンスが一ヵ月というような暮らしぶり、働き方は日本はまだまだ遠いのだ。

 

初節句この子いつでも泣いてゐる
小池博美

初節句であるからには、親族の赤ちゃん、お孫さんであろう。孫を詠んだ句に佳句は少ないが、この句は孫可愛さの句でない点目を引いた。「この子いつでも泣いてゐる」とは、おばあちゃんの句としてはかなり冷静で突き放した詠みぶりである。もちろん口に出して言えることではない。しかし生まれてまもない赤ん坊というものはこんなものである。初節句を喜んでいるのは両親とその両親たちばかり。着慣れないものを着せられて、普段いない大人たちに覗かれ抱かれ、かわいい、かわいいと言われても当人は居心地悪いことこの上ない。孫がかわいいのは万人共通のことだが、自分だけにかわいいのであることを孫俳句の作り手はどこかで意識していなければならないと、自戒をふくめて常々思っている。

 

底紅やふと妹の幼顔
清水みのり

「底紅」とは花の底だけ紅く、はなびらは白い木槿のこと。多分幼いとき暮らした家に咲いていたのだろう。白木槿よりも印象的であるし、かわいげがあるので、妹と遊んだ記憶と結びついているのだ。その花を見たとき、現在の妹ではなく、幼いときの妹の顔が思い浮かんだ。言うまでもなく作者自身も幼かりし頃、両親も若かった頃。昔から変わらない花には人々の記憶と結びついている背景があるのだ。その点でこの句の季語は動かない。

待ち伏せ  西村和子

首すぢに大暑の初光刺さりけり

垂直の千の沈黙青葡萄

向日葵の待ち伏せに会ふ夜道かな

短夜の寝覚の水腥き

短夜の川より衢明けにけり

川風に明易の床浮くごとし

落蟬やわが戸叩きてこときれし

子へものを書けば遺書めく夜の秋

 

山椒魚  行方克巳

ロック座の裏に目高を飼ふ男

山百合を抱へて死者に逢ひに行く

夏炉焚くシェヘラザードの物語

蛍火や千夜一夜のひとよにて

明滅の滅を数へて蛍の夜

あとかたも残さざるべく蛍の夜

汕頭のハンカチーフのやうな嘘

似てゐると思ふ山椒魚とわれと

 

流れ星  中川純一

母馬を見つつ仔馬の試し駆け

吹き上ぐる海霧に嬲られ蝦夷黄菅

連射砲めきし打水馬鈴薯へ

恋螢はらとこぼれてついと舞ふ

流れたる星の尾を断つマストかな

短夜の聞き慣れぬ鳥さつきから

託児所の満艦飾の星の笹

寝冷えしていつのも台詞パパ嫌ひ

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選

雲蹴つて蹴つてあめんぼ雲の上
高橋桃衣

刻刻と樗の花は灯の色に
吉田しづ子

梅雨鯰己が濁りに隠れけり
福地 聰

ソーダ水裏腹なこと言ひ続け
岡本尚子

かくて二人黙々と枇杷啜りけり
鴨下千尋

母に添ひ歩行訓練夏木立
月野木若菜

風不死も恵庭も夏の霧の中
中野のはら

梅雨晴の内地より来て蝦夷の雨
永井はんな

神殿の眼下五月の地中海
大野まりな

桜蕊降る棟梁の大工箱
志磨 泉

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選

其の人も同じ鉢買ひ桜草
山田まや

吹流し漁師継げよと言はねども
藤田銀子

軽鳬の子がゆく横になり縦になり
井戸ちゃわん

ラーメンに玉子を落とす昭和の日
吉田林檎

我がための新茶を買うて帰りけり
磯貝由佳子

古民家と呼ぶには廃れ花楓
石原佳津子

父の日の子よりの電話妻が待つ
福地 聰

ハンカチを結びて母の旅鞄
乗松明美

余り苗にも山越しの余り風
中田無麓

蟇ちょつと苛めてみたくなる
高橋桃衣

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

見舞はざることも有情や春の月
山田まや

疫病流行の時節柄ということも考えられるが、この句はもっと深い情を語っていると思う。病気であることを知ってすぐにも見舞いたい間柄なのだろうが、あえて見舞わない。それは情がないということではなく、あえて見舞わないことも情があることなのだ、という句である。春の月を眺めて、病室からもこの月を眺めているであろう病人を思いやっている。八十代後半の作者の年齢を考えると、病んで衰えているときにその姿を見られるのは、自分でも望まないことであろう。だからこそこうした句が生まれたのであろう。人生経験を重ねた人には共感を呼ぶ作品である。

 

喜ぶも呼ぶも拒むも囀れる
吉田林檎

先日「ダーウィンが来た」を見ていたら、小鳥たちの鳴き声にも言葉と同じような意味があるらしい。人間の耳には同じ囀りとしか聞こえないが、警戒を発しているとき、餌のありかに呼んでいるとき、愛の表現、それぞれ使い分けているということだ。この句を読んでそれを思い出した。
「囀り」という季語は、鳥の恋の季節が春なので春のものになっているが、大雑把に恋の季節とはいっても、喜んでいるとき、呼びかけているとき、拒んでいるときがあるだろう。作者の耳にはそれが聞き分けられているのかもしれない。

 

新茶汲む今なら母と何語らん
磯貝由佳子

お母さんはもうこの世にいないのだろう。作者は今年還暦、新茶をゆっくり味わいながら、お母さんのちょうどこの年齢のころを思い出したのだろう。あのころ自分は若かったから、お母さんが何を思っていたのかわからなかった。今自分がこの年齢に達して、子供もあのころの自分と同じ年代になった。今お母さんが元気でいたら、子育てのこと、人生のこと、何を語るだろうか。そんな心の余裕を語っているのが季語である。子育てに必死だったころ、生活し盛りだったころには、新茶をゆっくり味わうというような時間も心の余裕もなかった。

梅雨籠  西村和子

七変化住み替はりしはいくたびぞ

紫陽花や小路隠れといふ昔

梅雨めくやどこかで鋼削る音

梅雨雲の行方たしかむ鼻眼鏡

門古りぬ枇杷の大木もてあまし

梔子のくりいむ色の絞りたて

小窓よりチェンバロの音時計草

香炷きて彼の世の人と梅雨籠

 

父の日  行方克巳

父の日のなき歳時記を持ち古りし

父の日の父やついでのやうにゐて

日めくりの三日四日過ぎ父の日は

劇中劇のごとくハンカチ落しけり

しどろもどろ汗のハンカチ握りしめ

世渡りの抜手を切つて男梅雨

紫陽花のぼつてり感が一寸いやみ

いま何か踏ん付けたるは蟇

 

姫 鱒  中川純一

支笏湖の姫鱒旨し風旨し

ボート番をらざり湖の波つのり

道産子にサラブレットに風光る

捨て浮標を蹴れば舟虫跳ね出しぬ

六月の波寄せて時還らざる

紫陽花を揉みゐる風が雨呼んで

首タオルしてハンカチとおさらばす

わが庵は代田の下手蟇ぞ鳴く

 

◆窓下集- 8月号同人作品 - 中川 純一 選

一保堂新茶解禁あと二日
島野紀子

五月来ぬ水にやどれる森の色
井出野浩貴

砂の字の訳なく消ゆる啄木忌
原 川雀

藤房に見蕩れてをれば熊ん蜂
村松甲代

ボール跡壁にそのまま卒業す
國領麻美

拗ねてゐる子に空豆を剥かせけり
鴨下千尋

陽炎やモアイの如く人の影
井内俊二

いち早く少女半袖夏来る
福地 聰

このままぢやあ轢かれてしまふ蜥蜴つるむ
前田沙羅

塩鮭の鱗の光る台秤
田代重光

 

◆知音集- 8月号雑詠作品 - 西村和子 選

柄杓よりこぼるる光甘茶仏
藤田銀子

窓からは見えざりし雨楓の芽
井出野浩貴

栗の花一人で通るとき匂ふ
田中久美子

水分みくまりの北も南も田水張る
中田無麓

若葉雨釈迦の腋下を彫り進み
米澤響子

甲板にあごの飛び込む定期便
田代重光

西暦に記す生年昭和の日
中津麻美

小綬鶏の鳴くや仲間が欲しいよと
谷川邦廣

松茸の一片紛れ土瓶蒸
栗林圭魚

渋滞の窓よりしやぼん玉ぷかり
廣岡あかね

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

蝶生る愛さるること疑はず
藤田銀子

「蝶よ花よ」という言葉があるように、慈しみ愛して育てる象徴的なものが蝶である。いうまでもなく季語なのだが、この句の場合は季語の象徴性ということを意識して読んだほうが味わいは深まる。だれもが生まれたときは親に愛されることを信じて疑わずにこの世に出現する。しかしながら様々な事情によって、誰もが幸福な生い立ちを保証されているわけではない。
蛹から羽化した蝶を目の当たりにしたとき、気味悪い虫がこんなにも美しく変身する感動を覚えるものだ。そのとき、美しいものだからというわけではなく、新たな命の誕生について思いを巡らしてできた句だろう。

 

山巓に伽藍ちんまり椎若葉
米澤響子

京都の景色だろうか。この句から青蓮院の別院を思う人も多いだろう。町なかから東山を見渡すと、山の天辺に伽藍が平成になって出現した。初夏の東山は椎若葉がもくもくと盛り上がって山並が生き物のように見える日々がある。そんなとき、山の頂上に伽藍がちんまりと鎮座している光景を詠んだものだろう。
下から仰いでも、あそこから京都市内を見下ろす光景はいかばかりだろうと思われる。行ったことのない人にはぜひ一見をお勧めしたい。

 

夏蜜柑無粋不細工無愛想
田代重光

まず気付くことは、十七音すべて漢字である。見るからに硬い句だ。夏蜜柑は冬の蜜柑とちがって皮が厚くて硬く、なかなか爪が立たない。表記の硬さはそれを表しているようで、おかしみがある。しかも「無粋」「不細工」「無愛想」というわけだ。音読してみると、この濁音の繰り返しが効果的であることに気付く。しかも味は、近年ますます甘くなった蜜柑に比べると、いつまでたっても酸っぱい。
機知の句であるが、根本に写生と実感があることを忘れてはならない。

卯の花腐し  西村和子

沿道の泡立つ卯の花腐しかな

卯の花腐しあづま路の果までも

独りに倦み卯の花腐しにも倦みし

段なして横山誘ふ青嵐

鶯老を鳴く東京を出る気なく

過ぎてより気づく師の忌や若葉寒

疲れ目を養ふ新茶汲みにけり

黒日傘医者くすし通ひに褪せにける

 

五 月  行方克巳

師の齢すぎし五月の木偶坊

足裏の五臓六腑やの五月

カラヤンの鬣なびく五月かな

コンクリート漬の大樹の緑かな

十薬あまた干して百年またたく間

赤蝮きりきりと毒突いてくる

ポケットに青大将のしんねりと

桑の実に舌そめてわが「ヰタ・セクスアリス」

 

梅雨入  中川純一

午後からは土砂降りといふ梅雨入かな

尺獲にして美しき青纏ひ

母の日の酢漿草かたばみこんなにも咲いて

シャインマスカットほれぼれ袋掛

この道のなかんづくこの桐の花

更衣車掌のポニーテール揺れ

蚕豆の唇笑んでをるや否

稿未だ蚕豆は旬過ぎたれど

 

◆窓下集- 7月号同人作品 - 中川 純一 選

宵からの雨となりたる蜆汁
島田藤江

一処鱗をなせり花筏
前田沙羅

さへずりや池につき出し写経の間
永井はんな

月と日に照らされ涅槃したまへり
山田まや

花疲れ花に背を向け川を見て
竹中和恵

マカロンの箱にぎつしり春の色
中津麻美

身ふたつのうつらうつらと桜草
清水みのり

花市の競り勝ち五秒かすみ草
岡本尚子

糸桜風に応へて散らしけり
前田星子

掌を駆ける馬欲し四月馬鹿
帶屋七緒

 

◆知音集- 7月号雑詠作品 - 西村和子 選

全集もステレオも古り雛の家
井出野浩貴

許すとは認めることや春来たる
小林月子

本買ひに隣の町へ花菜風
井戸ちやわん

耕せり土が光を放つまで
中田無麓

子の役目親の責任鳥雲に
山崎茉莉花

耕人の舐めて今年の土計り
帶屋七緒

初蝶の思ひがけなき高さまで
前山真理

太陽の塔の裏側鳥の恋
中野のはら

春風やパレットに色ありつたけ
小塚美智子

草団子買うてビニール傘忘れ
中津麻美

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

悔いを知る者はさいはひ卒業す
井出野浩貴

新約聖書のマタイ伝の一節を思い出す。そこには、あわれみ深い人たち、心の純粋な人たち、平和を求める人たちを称えるとともに、嘆き悲しむ人たち、義に飢え乾いている人たち、義のために迫害されてきた人たちをも、さいわいであると称えている。それは何故かということを考えるとき、私達は神の心の広さ、人間の弱さを思い知るのである。
この句は明らかにその聖書の一節を意識した表現だ。卒業するにあたって、今までの歳月を悔やんでいる生徒を前にしたのであろう。もっと勉強すればよかったとか、友達をもっと作ればよかったとか、後悔は果てしがない。その生徒を前にして、悔いを知るということは今後の君の人生に大いなる糧が与えられたということだと、称え祝福しているのだ。
作者の教員という職業から生まれた心深い一句だ。

 

夫と来し時も甘酒梅見茶屋
小林月子

句の上では「亡き夫」とは言っていないが、想像力のある読み手なら過去形が語っている事情を読み取るだろう。梅が見頃だというので来てみたのだが、茶屋の床几に腰かけて温かい甘酒を飲もうということになった。その時かつて夫とここに来たときも、この茶屋で休んで甘酒を一緒に飲んだことを思い出したのだ。何も語っていないが、その折の夫との話題や二人の言葉が、梅の花の香とともに鮮明に甦ったことだろう。このように俳句では一番言いたいことを言わないでおいても、季語が語ってくれるのである。

 

しやぼん玉吹くとき少しづつ前へ
井戸ちゃわん

しゃぼん玉を吹いている子供を描写した句だが、吹くたびに少しずつ前へ歩を進めていることに気付いた。ありがちなことだが、なんと可愛らしい動作だろう。子供がしゃぼん玉を吹いている光景を愛情を持って見つめていなければ、なかなか描けないことである。春の季語である「しゃぼん玉」からは、風の柔らかさや日射しの明るさ、子供たちが外で遊ぶ季節になった声なども伝わってくる

明日は  西村和子

町並と育ちあめりかはなみづき

木から木へ風を手渡し花水木

門川がはこぶ落花も夕づきぬ

蘂隠しあへず吹かるる白牡丹

葉づくろひをさをさ風の白牡丹

咲き重り明日は崩るる白牡丹

パルチザン映画序幕の揚雲雀

自転車に久しく乗らず風薫る

 

絶滅危惧種  行方克巳

聞く耳を持たぬ治聾酒ねぶりけり

序の舞の序の一指の春憂ひ

花の雨話どつちに転んでも

砂時計いくたび返しても日永

伝法院閉したるまま花は葉に

目高より驚き易き子なりけり

目高の眼ごみのごとくにさんざめき

目高飼ふ男絶滅危惧種にて

 

目 高  中川純一

羽外れさうに震はせ雀の子

桜草思ひの丈の鉢あふれ

つつじ咲き盛り給食通用門

遅咲きの一樹のけふの花盛り

花冷に加へて風の出てきたる

花は葉に馴染みのワイン独り酌み

目高にも娘盛りのあらば今

大夏木翼下男子も女子も容れ

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

周遊の船の汽笛か初諸子
野垣三千代

こつち見る鏡の視線春愁
松井秋尚

山茱萸を貧者の灯とも華燭とも
中田無麓

アクリル板向かうにマスク受験生國
國領麻美

夫留守の厨事せぬ日の永き
𠮷澤章子

早春の光を廻す水車かな
西山よしかず

目を凝らし風やみし時海胆を突く
菊池美星

アルミ梯子するする伸ばし春立てり
前田沙羅

余寒なほ迷ひ込みたるユダヤ街
藤田銀子

長城に立つや飛燕のはるかより
福地 聰

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

蠟梅の蕾炸裂したりけり
谷川邦廣

人死して髭剃られをる朧かな
井出野浩貴

初夢に会ひたるは亡き人ばかり
山田まや

藁茸の色滲みたる氷柱かな
吉田泰子

誰からも遠き処よ犬ふぐり
志磨 泉

「さぼうる」のテーブル小さき春愁
中津麻美

薄氷へ風の細波回り込み
大橋有美子

いづれまた乱となるべし初桜
中田無麓

着ぶくれて財布の小銭まだ出せぬ
影山十二香

桜草十代の母健気なる
三石知左子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

稲妻を束ね金縷梅咲きにけり
谷川邦廣

隠喩の句だが、金縷梅の咲き様を稲妻を束ねたようだと見た点が際立っている。春になってまず咲く花だから、「まんさく」だという説もあるが、花とは思えないような形をしているので、紐のようだとか針金のようだとかいろいろな比喩を見かける。
この句の場合は天体の稲妻を想起した点がいい。稲妻という現象は稲の穂孕みに関わりがあるそうだ。科学的な証明はさておき、季節の移り行きに植物の花や実が大きな影響を受けているという直感は鋭い。作者は理系の人だから、何か科学的な知識をお持ちかもしれない。

 

健やかな五体いつまで菠薐草
山田まや

疫病流行の今、誰もが抱えている危機感ではある。作者の年齢が八十代後半であることを考え合わせると、いつまでもお元気なようだが実感であることが伝わってくる。知音の句会に毎月参加なさる八十代の中で、一番お元気で作品も刺激を与えてくれるまやさんだ。しかし今日は元気でも、この健やかな心身がいつまでこのままであるかという思いは、いつも抱いておられるのだろう。
「菠薐草」という季題が、実に生き生きとしていて好ましい。年齢に拘らず、冬も鮮やかな緑は私たちの生きる力を授けてくれる野菜だ。

 

新年号句敵の名の見あたらず
𠮷田泰子

「句敵」というと不穏な響きがあるが、この場合の敵は親の敵とか敵討ちの意味ではなく、ともに切磋琢磨して刺激を与えあう存在を意味する。口や顔に出すことはなくとも、心の中に句敵の存在はあってほしいものだ。句会の場でも、毎月の知音集の頁でも、句敵を意識している人は成長する。
成績に一喜一憂するというのではなく、自分にとっての句敵は誰だろうと思いを巡らせてほしい。句敵の作品が見られない新年号は、作者にとってもの足りないものだったろう。

駒返る草  西村和子

桃活けて離れ住む子の誕生日

山茱萸を挿頭し古墳の主や誰

紫木蓮ひとひら裏を覗かせし

春の風邪心地ふしぶしぎこちなく

亀鳴くや練塀長き綾小路

駒返る草に自転車乗り捨てて

ひもすがら鳴り響動とよむなり木の芽山

ゆくほどに耳朶こそばゆし芽吹山

 

桜 餅  行方克巳

寒牡丹まひるまの閨覗かるる

水影の声かうかうと鶴帰る

燕返し一太刀にしてやられたる

夏蜜柑内緒の話たのしくて

日月をつまぐるごとく彼岸婆

向島よりお持たせの桜餅

桜餅むけば冷たき夜のかをり

黒板に恋ほのめくや卒業期

 

辛夷咲く  中川純一

さきがけの辛夷に風のすさびけり

風船に吊り下げられしピエロかな

地虫出てすぐ草色にまぎれんと

春の出湯息子の軀分溢れ

ドアノブに大家さんより干若布

供へるとなく雛壇の若布汁

一摑みほどの花束卒業す

来年を約して共に浴びし花

 

◆窓下集- 5月号同人作品 - 中川 純一 選

竹馬や行くあてもなくただ闊歩
吉田しづ子

我が内にジギルとハイド去年今年
菊池美星

わが影をひたひた濡らす春渚
大村公美

明王の存外小さし初不動
大塚次郎

生涯を茶道に徹し足袋真白
山田まや

ちよつかいはいつも妹今朝の春
若原圭子

悴むやキャンセル通知捌きつつ
金子笑子

雪の香のはつかに兆し寒椿
島田藤江

夫の背のまろしと思ふ今朝の冬
池浦翔子

飛ぶ夢を見しより続く四温晴
竹見かぐや

 

◆知音集- 5月号雑詠作品 - 西村和子 選

あたたかき日の続きをり寒の入り
島田藤江

志とげたる朝梅真白
米澤響子

枯蘆の枯芒よりかろき音
井出野浩貴

月凍つる醜き我を窓へ嵌め
田中久美子

社への六十六段淑気満つ
井内俊二

マンションの下まで遠し冬籠
大橋有美子

参道のここも閉店春寒し
影山十二香

一投に一打に声援冬うらら
前山真理

寒肥や明日は雨の降るらしく
山﨑茉莉花

表札に旧き町の名鳥総松
藤田銀子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

雪しんしんこのまま暮れてしまふのか
島田藤江

雪がしんしんと降っている。天候も一日もこのまま暮れてしまうのか、それだけのことを言っている句だが、この句からは人生の淋しさが伝わってくる。疫病流行という昨今の世の中の状況や、作者の八十代という年齢を考え合わせると、雪がしんしんと降り積もる一日の淋しさは想像に余りある。
「このまま暮れてしまふのか」という心の呟きは、このまま終わりを迎えるのかという人生の感慨にも及ぶような気がする。寒く静かな世の中の底で、人は人生を深く掘り下げて思うことがある。表向きはあくまでも一日の天候と時間を詠んでいる点がこの句の魅力を深めている。

 

理財にもメカにも疎く蕪汁
井出野浩貴

自画像であろう。理財すなわち金儲けにも、メカすなわち先進機械の操作にも疎い、そんな自分を認めながら、蕪汁をおいしいと啜っている。まだ五十代半ばの作者にしてみれば、努力次第で理財にもメカにも強くなるとは言わないまでも、一般の水準ぐらいにはなれるだろう。しかしこの季語が語っているのはそんなことではない。そんな自分の生き方や価値観をこれでいいのだと自嘲ぎみに諾っているふしがある。
「蕪汁」はけっして贅沢なものではない。しかし作ったこのある人はわかるだろうが、熱を入れすぎると柔らかくなりすぎ、蕪の甘みが損なわれやすい。本当においしく食べるのはひと冬でも数回である。歳時記によると、蕪は株が上がるようにと商売繁盛の縁起物としても好まれたようだ。そう考えて読み直すと、どことなくおかしみが湧いてくる。

 

夫術後我故障中寝正月
田中久美子

「寝正月」とは怠けて寝て過ごしているわけではなく、元来は病気で寝ていることを縁起を担いで表現した季語である。作者は今年まさにそのような新年を迎えた。夫は手術の後、自分は看病疲れが出て何もしないで正月を過ごしたのだろう。「我故障中」という表現に俳諧味があり救いもある。長い人生のうちにはこんなこともある。こんな時でもこうした佳句を詠みうることを称賛したい。

水の器  西村和子

初旅や東海の山名乗り出て

鈴鹿嶺に畝を集めて麦青む

伊吹山雪の拳骨固めたり

天霧の風巻しまけり雪の伊吹山

大いなる水の器の初霞

坪庭の明かりさす窓茶房冬

松過のロビーに聳ゆ猫柳

底冷や画廊の奥の絵の燃ゆる

 

菠薐草  行方克巳

玉櫛笥二上山も春の山

麦を踏む心遅れて行くばかり

ひとの死が我をうながす春疾風

稚のごとく摑り立ちや春嵐

若鮎の寸とどまりて尺走り

母の待つ小さな日向大試験

菠薐草その一束をまづは買ふ

菠薐草一つ覚えのごとく買ふ

 

春疾風  中川純一

バレンタインデーの爺ぢにチョコとキス

早春や犬の床屋はガラス張り

斑雪野の暮れて湯宿の灯のひとつ

混浴のをみなを包み春の雪

吊し雛湯の川へ窓ひろびろと

美しき眉を顰めて大試験

ミモザ咲きひつそりはやりヘアサロン

空港のコーヒー薄く春疾風

 

◆窓下集- 4月号同人作品 - 中川 純一 選

前世は石ころならむ枯野行く
山田紳介

昃れば己れ点して石蕗の花
前田沙羅

無患子の実をちりばめし初御空
平岡喜久子

いただきし小粒のみかんおすそわけ
矢羽野沙衣

咲き満ちて蠟梅翳を失ひぬ
原 川雀

不要不急ならぬ用あり小夜時雨
黒須洋野

好きな色ティファニーブルークリスマス
竹中和恵

眉美しき媼が主役女正月
森山淳子

雑煮椀刃物は持てぬおついたち
島野紀子

人を待つベンチに落葉薫りたる
中津麻美

 

◆知音集- 4月号雑詠作品 - 西村和子 選

冬耕の神事のごとく振るふ鍬
中田無麓

極月の百円ショップに散財す
中野のはら

まつぼつくり拾ふ園児等聖夜待つ
中野トシ子

遠目にも剪定済みし林檎園
金子笑子

冬夕焼海を隔てて大東京
井内俊二

新しき日々平らなれ日記買ふ
吉田林檎

矍鑠たる後ろ姿の冬帽子
野垣三千代

踏みゆけば雨匂ひ立つ朴落葉
田村明日香

手を振つて近づくは誰暮早し
亀山みか月

大木に当てし手のひら今朝の冬
森山栄子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

寒天干す狹門の幅を使ひきり
中田無麓

天草を干すのは夏、日本中の海岸で見られる光景だが、「寒天干す」となると、夜は寒く昼間は雨の少ない土地に限られる。大阪北部の北摂地方では、気候も地形もこの条件に合致するので冬には寒天を製作する工程が見られる。その地形を表しているのが「せばと狹門」というわけである。谷間の奥まったところを意味する言葉だが、この句のポイントはここにある。しかも狭い地形なのに、その「幅を使ひきり」と表現していることで、一面の寒天干場が見えてくる。昼間は山から寒風が吹きつけ、夜は干された寒天が凍るのである。
三十年ほど前、私も北摂の仲間とともに寒天干しを吟行したことがある。こんな山の中で寒天はつくられるのかと新鮮な驚きを覚えたものだ。畑の中で冬の副業として寒天が干されているのだ。作者の住まいはまさにその北摂地域である。真冬の吟行は一年でも若いうちに体験しておいたほうがいいので、近くの仲間はぜひ足を運んでほしい。この句の巧みさが改めてわかることだろう。

 

墓要らぬ話も女正月よ
中野のはら

女正月に集った人々の話題である。昨今は「墓じまい」ということも耳にするほど、遠隔地の墓を守っていくことに難しさを覚える人も多い。家中心の墓に自分は入りたくないという女性の話も耳にする。親類縁者との血縁ゆえの難しさに女たちが従わない時代になったとも言える。「樹木葬」とか「散骨」などの話を聞くと、私はそれがいいと思う女性も増えてくるだろう。「女正月」という季語が語っているのは、女性たちの今までは明かせなかった本音がここに語られているからだ。

 

銀杏落葉赤信号を走り抜け
中野トシ子

落葉の中でも銀杏落葉に目をつけたのは、ことさら輝いて美しいからだ。しかも街路樹に好まれる木なので、落葉の季節には都会でもこうした光景がよく見られる。赤信号なのにお構いなしなのは、人間以外の動物か木の葉なのだろうが、「走り抜け」と表現したところにこの句の工夫はある。まるで小さな生き物が走り抜けたように見えたのだろう。