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三 溪 園  西村和子

尺取虫一寸先も見えてゐず

逸りては堰かれては鳴る春の水

渡れとて飛石いくつ春の水

水迅し飛石を縫ひ芹あら

この庭や山吹の谷蕗の海

雨脚の縦のち斜め松の芯

裏木戸を封じ木香薔薇盛り

朝刊に包みつややか芹の束

 

大徳寺納豆  行方克巳

春荒の波にこと問ふ都鳥
空也上人
春なれや南無阿弥陀仏なんまいだ

行春や地獄巡りの万歩計

不意に五月日めくり怠けゐたる間に

六道の辻の片陰濃かりけり

大徳寺納豆一粒半夏生

夏めくや草木虫魚人われも

固まつて亀の子束子みたいやね

 

蠅 生 ま る  中川純一

蛇坂の先に寺あり萩若葉

屈託も忖度もなく蠅生まる

赤心のありやと問へる菫かな

少年に少女駆け寄り花は葉に

春日傘かしげエッフェル塔見上ぐ

うららかや売物の椅子道に出し

行春やボート乗り場をただながめ

肩幅の歩きだしたり入学子

 

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

一夜にして街にあふるる春コート
井出野浩貴

温かき子の手を頼り梅見かな
村地八千穂

立子忌の月に寄り添ふ星一つ
小池博美

亀鳴くや月のうさぎに恋をして
野垣三千代

丁子屋の湖へ開けたる春障子
米澤響子

箱の中息して届く蕗の薹
鈴木ひろか

古き良き昭和の失せて年明くる
谷川邦廣

鶯や山懐に父母眠り
横山万里

前かごにスケッチブック春きざす
中津麻美

山積の本そのままに寒明くる
黒羽根睦美

 

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

まづ詣で懸想文売探しけり
山田まや

あるじなき屋敷のしだれざくらかな
井出野浩貴

裸木に凭れ二脚の高梯子
大橋有美子

手相見の人相あやし春の宵
松枝真理子

春昼の鏡の顔の他人めく
牧田ひとみ

節分の鬼を追ひかけ京ひと日
中野のはら

若菜摘む万葉人の血を継ぎて
佐瀬はま代

風光るチアリーダーの力瘤
前山真理

好きな色ばかりを摘まむ雛あられ
松井秋尚

毛糸編む絵を描くやうに色を替へ
山﨑茉莉花

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

埋火に炭足して待つ夜の稽古
山田まや

「埋火」「炭」という季題は令和の現在、日常生活では親しみが薄れてきた。電気やガスによる暖房が普及して、千年前から用いてきた、炭で暖を取るということはほとんどなくなった。したがって炭火を消すのではなく、灰の中に埋めて火種を長持ちさせるためのものということも常識でなくなった。表面的には消えかけたように見えるものが実は燃えているということから、胸中の比喩として千年前から歌に詠まれてきた。作者は茶道教授なので、日常的に埋火に炭を足すというようなことを行っている。句の後半に至って、茶道を習いに来る弟子を待っている時の静けさや緊張感が伝わってくる。しかも「夜の稽古」である点に感銘を覚えた。作者は今年九十一歳である。こんな時、投句用紙に記された年齢や職業が鑑賞の手助けになるのだということを、皆さんも心に留めておいていただきたい。

 


春の夜の食器洗ひ機うたひだし
佐瀬はま代

食器洗い機というような味気ない家電品が、句の題材になるとは私も知らなかった。食器洗い機用洗剤がスーパーでは売っていない頃からこの恩恵を受けている私としては、はっとさせられた一句だ。最近息子の家に行って、食器洗い機の音が静かなことに驚いたが、まさか曲を奏でるような新機種が出たということではあるまい。
食後のひと時、食器洗い機に働かせてテレビを見たり家族と話しをしたりするひと時は、主婦にとってうれしい時間だ。そんな思いを「春の夜」という季語と「うたひだし」という描写に託した一句。いつもの機械の音がまるで歌っているかのように聞こえるのは、作者の幸福感を表していよう。

 

 

風光るチアリーダーの力瘤
前山真理

チアリーダーといえば応援団の花形で、バトンをくるくる回す動きやミニスカートの眩しい服装などに目が行きがちだが、この句は「力瘤」に焦点を当てた手柄。季語は動かないし、笑顔や溌溂とした若さの裏に、たゆみない練習によってできた力瘤も眩しい。このように一般的な視線ではなく、自分なりの発見と感動があることで、俳句は際立ってくる。

 

 


春 動 く  西村和子

吊橋の彼方は鉄都春動く

つちふるやかつて石炭積出し港

西国の山々まろし春夕焼

料峭の篁を攻む山気かな

手水鉢紅白梅の影沈め

籠れるは怒気か怖気か袋角

袋角どつくんどつくん血の通ふ

鶯に普請の音の活気づく

 

齋藤愼爾永眠  行方克巳
令和五年三月二十八日 昭和十四年八月二十五日生れ(満八十三歳)

花の雨飲食厭になりにけり

花冷の補聴器とれしまま眠る

しんちやんこつち/\と杏子花の昼

断末魔ありしともなく花の昼

湯上りのやうな死顔花の昼

雛壇に齋藤愼爾もう居ない

喪ごころのこの一椀の蜆汁

さくら咲きさくら散りわれ老いにけり

 

木 の 芽 時  中川純一

うららかやパンの角からジャムこぼれ

思ひ出し笑ひに応へ水温む

雛流すセーラー服の膝ついて

花ミモザ老嬢ジャンヌひとり棲む

花の雨ポニーテイルの裸像濡れ

楓の芽窓探し当て触れもする

芽吹きをり上皇后の名の薔薇も

寝姿の羅漢の仰ぐ木の芽かな

 

 

◆窓下集- 5月号同人作品 - 中川 純一 選

通されて小声になりぬ冬座敷
大橋有美子

二千年前より愚かクリスマス
井出野浩貴

歌かるた坊主の歌をまづ覚え
山近由起子

微笑みの自づとこぼれ大熊手
谷川邦廣

立春の空に消ぬべく夕烟
中田無麓

帯結ぶ鏡の中の余寒かな
山田まや

甘え寄る馬の睫毛に春の雪
池浦翔子

初糶の片手に持てぬ出世魚
前田星子

間取図のパステルカラー春隣
中津麻美

いくばくの余命頂く寒卵
折居慶子

 

 

◆知音集- 5月号雑詠作品 - 西村和子 選

三門に上れば近し春の山
松枝真理子

人混みにをりて一人の師走かな
山田まや

春浅しこの道やがて岐れ道
小倉京佳

大寒やぴつと人差指を切る
高橋桃衣

縁側へ声かけて買ふ寒卵
小池博美

生涯の後半戦へ初日差す
吉田林檎

三方も撒く勢ひや福は内
三石知佐子

ふるさとの丸餅焼飛魚届きけり
大野まりな

日脚伸ぶ里より来たる箒売
吉澤章子

家事室の遺影の母へまづ御慶
石原佳津子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

焼いもや難しいこと考へず
松枝真理子

上五の切字が効果的な句。この切字によって「難しいこと考えず」との間に大きな断層があることを示している。表面的にはこう言っているが、実は直前まで難しいことを考えていたのではないか。しかし焼いもを食べるときぐらい眉間に皺を寄せず、このおいしさと温かさを単純に楽しもうという思いを読み取った。
冬の季語である焼いもは、江戸時代に現れたという。だいたい女子供の好物と思われてきたが、歳時記には男性の例句が多い。現代は焼いもばかりでなく、スウィーツ好きの男性も恥ずかしい思いをしない時代になったが、焼いもが大好きな女性こそ、実際に食べてこそ、いい句ができるに違いないと、男性たちの例句を読むにつけて思う。
湯気を立てているほくほくの焼いもを食べてこそできる、こういう句を、女性たちよ、目指そう。

 


もう風を感じてをらず枯蓮
山田 まや

枯蓮にもいろいろな段階があって、冷たい風に吹かれて寒そうだとか、心許なさそうだとか思ううちは、まだ感覚が残っているように思える。しかし、枯れ切ってしまって風に抗ったり跳ね返したりする力も無くなったような枯蓮は、何も感じていないようだ。それを「もう風を感じてをらず」と表現した点に、きめ細かな描写力が出ている。大雑把に枯蓮を眺めていては、こうした句は詠めないだろう。大いに学ぶべき写生句。

 

 

鷽替やはつたり多き我が一世
小倉京佳

「はつたり」とは「実情よりも誇大に言ったり、ふるまったりすること」と広辞苑にある。「鷽替」は天神様の境内で、過去の嘘を取り替える行事だ。小さな木彫の鷽という鳥を、宮司や巫女さんまで巻き込んで、「替えましょう、替えましょう、うそ替えましょう」と唱えながら見知らぬ人たちと取り替える行事に、私も大阪の天神さんで加わったことがある。
はったりを利かすとは、自分を鼓舞する場合にも必要だし、嘘というわけではない。しかし心のうちにやましいものが残る。「鷽替」という季語に託して、心中を明かした句として注目した。このような本音を託す句を、この作者には期待している。

 

 


京 へ  西村和子

こののちの四温をたのみ旅仕度

暮れきらぬ雪の伊吹の面構

雪の原越ゆやゆく手の茜空

寒靄や屏風と迫る比良比叡

先斗町出はづれ朧月高し

しづり雪山門直下砕け散り

立春の音漲れり水路閣

満目の冬芽うずうず大銀杏

 

鳥 雲 に  行方克巳

国境ひ燃えてをるなり鳥帰る

ポケットにいつの半券鳥帰る

鳥雲にマリリンモンローノーリターン

鳥雲に入る誰彼の死の噂

雁行待ちの銀河鉄道二十五時

序破急のまた序破急の春の波

猿真似の猿に笑はれ梅祭

婆婆羅的孤独死はあれ梅二月

 

鴨 一 羽  中川純一

揚船の塗り直されて春を待つ

昨夜の豆自転車置場にもこぼれ

七人の小人ころころ蕗の薹

浅草の七味屋今も実千両

観梅や砂糖のやうな雪が降り

春燈娘の美貌母凌ぎ

付添の病院広き余寒かな

三四郎池蝌蚪未だ鴨一羽

 

 

◆窓下集- 4月号同人作品 - 中川 純一 選

寒波来ぬ手錠の腕に針を刺し
田村明日香

蠟梅に日向の色ののり染めし
山田まや

風の音連れて帰りし柚子湯かな
井出野浩貴

人目には気楽な暮し日向ぼこ
井戸ちゃわん

福達磨妊婦のごとく抱へけり
吉澤章子

肥えし子も痩せしも揃ひ屠蘇祝
松井洋子

二日はや足の向くまま浜日和
芝のぎく

お年玉とびきりの笑み返さるる
大村公美

あどけなさ残る巫女より破魔矢受く
政木妙子

うら若き女鷹匠黒ずくめ
成田守隆

 

 

◆知音集- 4月号雑詠作品 - 西村和子 選

都心の灯したたつてゐるクリスマス
吉田林檎

俳縁のつくづく奇縁初句会
松枝真理子

ポインセチア表紙の反りし聖歌集
小池博美

祝箸十膳へ名や墨香る
牧田ひとみ

散紅葉枯山水をささやかす
大橋有美子

放蕩も不犯も詩人星冴ゆる
井出野浩貴

鴨泰然雨を嘆くは人ばかり
藤田銀子

点滴の速度確認初仕事
三石知佐子

スケートの大臀筋に見惚れけり
中野のはら

マフラーをはづして見せるネックレス
田代重光

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

大寒や向かひ風こそわが力
吉田林檎

大寒の頃、真っ向から吹きつける風は一年で一番冷たく厳しい。「追風に乗って」という言葉があるように、順風は追風、逆風は向かい風である。普通なら妨げになるような風を、これこそ我が力になると言って憚らないのは、若さの故か強がりの故か。
ピンチはチャンス、という考え方があるように、厳しい逆風こそ自分の力として乗り切ろうという意志を表した作品。

 


古暦にはかに心細くなり
松枝真理子

この暦は日めくりだろう。年末の暦を季語では古暦というが、一年間毎日破いては捨てて来たものが、ある日急に残り少なくなったなあと思った時の実感。それを「心細く」なったと表現している点に情がある。十二月も半ばを過ぎた頃のことだろうか。「にはかに」と言う言葉も、昨日までは気づかなかったことの発見を表している。

 

 

冬灯書庫より死者のささめ言
牧田ひとみ

図書館の光景だろう。季語から寒々しい空間が伝わってくる。書庫から死者の私語が聞こえてくるとは、鋭敏が感覚である。書庫に収められている本も、現代のものではなく古典であることが語られている。
冬の書庫の静寂の中に身を置くと、この世にない人々の声が聞こえて来るような気がして、背筋がぞおっとする。冬灯も乏しいものに違いない。

 

 


白 味 噌  西村和子

愚かなる人類に年改まる

身の軋み壁の亀裂も寒に入る

真夜覚めて微光不気味や寒の内

負けつぷり潔きかな初相撲

弓なりに堪へあつぱれ初相撲

破魔矢受く疫病えやみ三年祓ふべく

練るほどに白味噌艶冶小正月

さきがけの白梅五粒陰日向

 

寒 の 水  行方克巳

氷りけり風波のその細波も

下剋上よりも逆縁雪しづり

着膨れてマスクのうへの鼻眼鏡

年寄の嫌みなか/\着ぶくれて

着ぶくれてこの世せましと思ひけり

初夢の終りさんかく まる しかく

血の管を滌ぐ寒九の水をもて

寒の水ほんたうはこれが一番うまい

 

泣き黒子  中川純一

初詣般若心経漏れ聞こえ

獅子舞のすはと伸びしが一睨み

泣き黒子ばかり目を惹き初映画

梅早し見えてきたりし待乳山

人日の妻に購ひたる肌守

パエリアを請はれ俎始かな

鰻屋の壁の羽子板ひとつ殖え

春近き日の斑ころがり心字池

 

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 中川 純一 選

リヤカーの二人子下ろし大根乗る
島野紀子

新海苔や炙り上手と夫おだて
池浦翔子

ていねいに遺影を拭くも年用意
米澤響子

秋深し猿の腰掛席二つ
井戸村知雪

みちのくに風の咆哮鎌鼬
小野雅子

古セーターまとひて心さだまれる
井出野浩貴

暮るるまで枯野に居りて枯野詠む
山田まや

諳ずる東歌あり山眠る
前田沙羅

薄切りの夕月色の大根かな
山本智恵

下総の土塊荒き冬ひばり
吉田しづ子

 

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

麓まで葡萄畑の連綿と
谷川邦廣

隧道を二つ抜け冬近づきぬ
藤田銀子

木枯に幟はためく「にぎわい座」
國司正夫

木の葉髪近頃夫と意見合ふ
くにしちあき

数へ日の神主ベンツ降りて来し
佐貫亜美

羽子板市テレビカメラは美人追ひ
小池博美

行列に鳩の割り込み十二月
吉田林檎

眼鏡外して秋の声聴き止めむ
山﨑茉莉花

落葉寄せ付けず社の新しき
高橋桃衣

筆談の最後は破線冴返る
米澤響子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

医者で待ち薬局で待ち年の暮
谷川邦廣

「医者」「薬局」という場から年齢が想像できる。あるがままを淡々と詠んでいるが、年末の人々が殺到する場所で、ここでも待たなければならない、また、待たされるというやりきれなさが言外から察せられる。「待たされ」とか「待たねばならぬ」とか表現すると、愚痴や不満になる。事実だけを述べて思いは汲み取ってもらうという、俳句の骨法にかなった句だ。いうまでもなく季語に多くを語らせている。
企業の四十五歳研修で俳句を始めた作者も、喜寿を越えた。老齢の日々はこんなものだと冷静に描いた点に年季を感じる。

 


落葉掻く丘に図書館能楽堂
國司正夫

丘に図書館が立つ町は全国どこにでもあるが、能楽堂がある町はざらにはない。季語が、歴史ある木立と静けさを語っている。文化的に成熟した街を想像させる。単なる事実を述べただけだが、想像の世界が広がっていく楽しさがある句。
この句はヨコハマ句会の吟行で久しぶりに紅葉坂へ行ったときの所産。横浜に限らず、木立の中に図書館や能楽堂がある丘の上を想像してみよう。

 

 

木の葉髪近頃夫と意見合ふ
くにしちあき

ということは、昔はご主人と意見があまり合わなかったのだ。黙って従う妻ではないことも語っている。若い頃は、意見の違いを堂々と語り合った夫婦に違いない。ところが季語が語るような年齢になると、夫の意見に反発を覚えない自分を見出したのだ。
この句は近頃だけを語っているのではなく、若かった頃の夫婦のありようも語っている点に、工夫も味わいもある。

 

去年今年  西村和子

木登りのはじめ冬木にかぶりつき

少年に腹筋冬木に力瘤

冬晴やサッカー少年いづこにも

働けるかぎり働くちやんちやんこ

客捌きつつ鎌倉の年用意

数へ日のいつもの茶房常の席

年越の塵も埃も我が身より

子ら来るを待てば輝く初御空

 

もう若くない  行方克巳

どの畦に立ちても筑波颪かな

蓮根掘る常陸風土記の国中くんなか

蓮根掘る泥の細波かき立てて

狸とも貉ともなく十二月

冬桜咲きの盛りのさびしらに

ぶくぶくと柚子が湯を噴く冬至かな

如何にせん冬至南瓜の四半分

おでん酒ふたりとももう若くない

 

紅天狗茸  中川純一

紅天狗茸の観察這つて寄り

そつぽ向きをれば目に入り実南天

風呂吹に絵の具のやうな味噌のせて

居眠れる眉美しや暖房車

ときどきは水をたもれとシクラメン

退任の後の柚子湯にふかぶかと

黄落や出会ひがしらの手を振りて

山眠る瓦礫屍の街の果

 

 

◆窓下集- 2月号同人作品 - 中川 純一 選

松手入まづ空鋏唄はせて
池浦翔子

胸元をふつくら合はす菊師かな
影山十二香

変声期終はれば美声小鳥来る
杢本靖子

栗おこは買うて一日を締めくくる
黒須洋野

山茶花散る音なき音を聴きにけり
山田まや

昌平坂行きつ戻りつ秋惜しむ
村松甲代

嘘なんてつけないものね蜜柑むく
山本智恵

スリッパの冷たき東方正教会
米澤響子

石狩川河口十里の芒原
吉田しづ子

豊の秋里山暮し愉快なり
吉澤章子

 

 

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 西村和子 選

学府に灯銀杏落葉を照らしつつ
井出野浩貴

塔婆書く僧はTシャツ萩の寺
國司正夫

潮風の匂ふわが町鳥渡る
井戸ちゃわん

言ひかけて言ひやめしことすがれ虫
山田まや

豊の秋動けないから腹減らぬ
中野のはら

石蕗咲くや昔小池のありし庭
中津麻美

秋うららぼうろかるめらかすていら
立川六珈

袖捲り泰山木の花仰ぐ
栗林圭魚

七五三父の最も美形なる
影山十二香

一景に花なき葉月吉野窓
藤田銀子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

山茶花や畳むほかなき家なれど
井出野浩貴

「畳む」という日本語には様々な意味がある。衣服を畳むという他に、まとめて始末するとか、胸に畳むとか、広辞苑を引くと物騒な意味も書かれている。この句の場合はいうまでもなく、「店を畳む」のように閉じて引き払うという意味に使われている。「始末する」などと言ってしまうと身も蓋もないが、「畳む」という言葉が選ばれている点に作者の思いが籠められていよう。
もう誰も住んでいない親の家、これから住む予定もない家だが、人生の大半の思い出がある家。そこを引き払ったり人手に渡したりしなければならない辛い体験は、五十代を過ぎると誰もが思い当たることだろう。「山茶花」という季題に、作者の愛着や淋しさが籠められている。さらに「家なれど」と言いさしている点に、理屈ではわかっているのだが、心情的にはそうしたくはないという心残りも表れている。

 


芸術の爆発したる上野秋
國司正夫

「芸術は爆発だ」という岡本太郎の激しい言葉を、誰もが思い浮かべるだろう。上野といえば美術館や博物館、芸大や音楽会場など、東京の代表的な芸術の町だ。この表現から、かなり前衛的でシュールな絵や彫刻などが見えて来る。芸術家の様々な生き方を、否定したり拒絶したりするのでなく、こういう世界もあるのだと楽しんでいる思いが伝わってくる。

 

 

秋晴や口あけて干す旅鞄
井戸ちゃわん

澄んだ秋空の下、旅の思い出とともに、鞄を干している。これは誰もがすることであるが、「秋晴」という季語が大いに語っている、終えたばかりの旅も好天に恵まれて、秋の景色や味覚を存分に楽しんだであろうし、鞄には土産物も詰め込んだのだろう。それらを空っぽにして鞄を干したとき、旅が終わったと実感したのだ。心身ともにリフレッシュして、今日からは秋天の下で掃除、洗濯に励もう。そんな声も聞こえて来そうだ。

 

憂国忌  西村和子

玲瓏と冬天朗々と鳶

禍事を祓へたまへや銀杏散る

手品師の鳩紛れをる冬日向

綿虫やひとりごころを嗅ぎつけて

綿虫や御納戸色を纏ひたる

憂国忌天の金瘡擦過傷

残照に梢をののく憂国忌

憂国忌罪悪感のいづこより

 

この児抛らば  行方克巳

紅葉且散る石のきだ水の段

虫食ひも病葉も冬紅葉かな

落葉籠てふ一品を展じたる

落葉籠にも夕しぐれ朝しぐれ

寂庵のけふも居留守か雪螢

色変へぬ松にも紅葉敷きつめて

紅葉渓この児抛らば夜叉となる

冬紅葉阿弖流為アテルイの血に母禮モレの血に

 

冬に入る  中川純一

紅天狗茸の観察這つて寄り

霧はれて来し初島の仔細かな

手芸屋に目当の小物文化の日

縋りつく菊師に政子目もくれず

冬に入るクロワッサンがほろと裂け

バスを待つ唇乾き今朝の冬

白鳥を彫り起こしたる朝日かな

大声で呼ばれ振りむき蓮根掘

 

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

思ひ草しやがんで覗きゐたりけり
山田まや

狩人のベルトに一枝白桔梗
山本智恵

面会の十分了へて虫の声
太田薫衣

夫の忌や未だ生かされて秋桜
村地八千穂

西域の星の色なる葡萄かな
井出野浩貴

稲刈の列凸凹となる遅速
松井秋尚

きのこ山茸匂ひて雨激し
島田藤江

初恋の話などして敬老日
橋田周子

花街の湯屋の灯点り夕月夜
芝のぎく

七色のもう暮れ初めし秋の海
大村公美

 

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

嬉しくて羽ばたき止まぬ小鳥かな
高橋桃衣

拾はむとかがみ椎の実こぼしけり
井出野浩貴

母によく似た人ばかり処暑の街
藤田銀子

右琵琶湖左秋草湖西線
島野紀子

十五夜のコインランドリーにひとり
井戸ちやわん

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

母の手のスローモーション曹達水
佐々木弥生

身に入むや血脈の絶え歌残り
牧田ひとみ

宝くじ売り場に上司秋の宵
成田守隆

風にふと押し出されたり秋の蝶
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

秋の空吸ふ前に息吐き出さん
高橋桃衣

高く晴れ上がった秋の空を仰いで、深呼吸しようとしたときの作。爽やかな新しい空気を存分に吸い込もうとするには、その前に肺に残っている空気を吐き出さなければならない。このことは深呼吸だけではなく、自然界や人体をはじめとする大方の物に通じる真理である。
「秋の空」は動かない。試しに他の季節に置き換えてみるといい。春では心地よすぎるし、夏は辛い。冬はどんよりしている。清新なものを取り入れようとするとき、澱んでいた空気は吐き出した方が効果が期待される。

 


彦根から守山からのヨットの帆
島野紀子

地名が効果的に用いられた句。「彦根」と「守山」といえば、琵琶湖の光景であることが一読してわかる。湖にヨットが繰り出してゆく光景を描くのに、湖という言葉を使わない工夫が凝らされている。琵琶湖の地理が頭に入っている人には、彦根から出て来たヨット、守山から進んできたヨットの方角や向きがすぐに想像できるに違いない。
海のセーリングは激しい動きがあるが、湖のそれは堂々として静々としている。そんなことも見えて来る句だ。

 

 

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

一人暮らしの境遇から生まれた句。家族がこの家に帰って来た頃は、その時刻になると玄関から門までの辺りに水を打っていたのだろう。それは、昼間の火照りを冷ます効果はもとより、外で働いて帰ってくる家族を迎えるための、主婦なりの心遣いであった。何十年か経って境遇の変化を経て、家を守っている作者。もうこの家に毎日帰ってくる人は無いのだけれど、長年の習慣を守っている。「水を打つ」という季語は、とかくもてなしの思いで詠まれることが多いが、この句は自宅に水を打つ作品である。おのずから作者の人生をも語ることになった。

 

稲 光  行方克巳

夕月夜桟橋はひと悼むところ

稲光いま無呼吸のわれならずや

稲光つひのひとりと思ひけり

灯火親し見ぬ世の友も見しひとも

世渡りの栗羊羹も酒もよし

栗羊羹の歯形いやしき男かな

水深のごときゆふぐれ迢空忌

穴惑ひ山廬の昔語るらく

 

十七年  西村和子

そののちの秋速かりし長かりし

旅さやか世に亡き人を伴ひて

それよりのはぐれ心の秋深し

見晴らしの堂塔山河秋日和

叡山の額蒼白秋気澄む

山頂を浄めたりけり秋の風

山河秋心あらたに生きよとて

秋の声すなはち死者の声届く

 

海 光  中川純一

秋麗ら振らねば止まる腕時計

桂馬飛びして墓原の青飛蝗

石狩の朝日燦々鮭を待つ

惜しみなく板屋楓の紅葉晴

海光は鳶の描線秋麗ら

北大の秋日きはまるポプラかな

をみなたる気概ありけり皮ジャケツ

綿虫の描き散らしたる光かな

 

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 中川 純一 選

嬰に耳触られてゐて夜長し
亀山みか月

もう夫は寝付いて居りぬ虫の闇
金子笑子

蟷螂の目力にもう負けてゐる
下島瑠璃

辞書重し一字を探す秋灯下
山田まや

ほんのりと海の匂へり心太
𠮷田泰子

口開けてフェリーが待つよ夏休み
石原佳津子

毘沙門の虎を包みし法師蟬
村松甲代

アレと言ひアレねと返す盆用意
森山栄子

鄙ぶりの特大おはぎ施餓鬼棚
吉田しづ子

夕まけて一番手なるちちろ虫
鴨下千尋

 

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 西村和子 選

溽暑きはまりぬ為政者狙撃され
藤田銀子

蚯蚓鳴く俳句すいすいできる夜は
松枝真理子

屋上へたれも誘はず鰯雲
井出野浩貴

青田風農家継ぎたる眉太き
田代重光

台風やテールランプに目を凝らし
前山真理

小鳥来る人は弁当食べに来る
吉田林檎

ボール探す秋草踏んで踏んで踏んで
高橋桃衣

曼珠沙華すつくすつくと着地せり
米澤響子

榛名富士凛と映して水の秋
鴨下千尋

少年の頃の昂り台風来
松井秋尚

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

つはものの落涙か滴れるとは
藤田銀子

滴りという自然現象を涙と見立てる俳句は珍しくはない。しかしこの句の涙は「つはものの落涙」である。NHKの今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」を見るにつけても、貴族の世から武士の世の中への日本史の移行に際して、数々の残酷な戦いがあったことを私達は改めて知ることになった。
この句の作者は鎌倉在住なので、至る所に血なまぐさい遺構があることを知っている。崖や切通しの滴りを目にして、これは鎌倉時代の武士たちの無念の落涙ではないだろうか、と見えてくるのだろう。同じ涙でも、悲しみや淋しさゆえのものではなく、つわものの涙は無念や恨みの象徴である。「落涙」という言葉のニュアンスも汲み取りたい。

 


寅さんのポスター褪せてかき氷
田代重光

いうまでもなくフーテンの寅さんのポスターである。今でもテレビで放映されると必ず見てしまう、昭和の名作だ。そして同じところで声を出して笑ってしまう。どの地方の背景も昭和の時代をそのまま映していて、私達の世代には懐かしい限りだ。
そのポスターが褪せてしまっているという点に、昭和が遠くなったことを実感する。作者はかき氷を食べているのだ。その場所は柴又商店街かもしれない。映画の終わりは、冬なら江戸川の土手の凧揚げ、夏はとらやのおばちゃんが作るかき氷、そんなパターン化した画面も今となっては懐かしい。この季語は動かないのである。

 

夕まけて夢二の庭の秋の声
鴨下千尋

毎年伊香保で行われる夢二忌俳句大会も、疫病の影響で今年は三年ぶりの開催となった。その折の句。「夢二の庭」は榛名湖畔に夢二の最晩年に建てられたアトリエのことだろう。地元の有志によって保存されているそのアトリエは、毎年吟行コースに組み入れられている。庭といっても秋草が伸び放題になっていて、露草の色が印象的な空間である。ここで過ごしたいという夢二の夢は叶わなかったが、目の前の湖が暮れて来ると、現実には聞こえて来ないはずの声や音が、詩人の耳には届くのだ。

 

稲 雀  行方克巳

九十九里浜秋は薄刃のごと翳り

秋の浜座れば砂のあたたかく

稲雀憎く雀の憎からず

稲雀投網打つたり峡の空

一陣の返せば二陣稲雀

蛇笏忌や後ろ手の何考へる

蛇笏忌や酒のごとくに水銜み

段ボール抱へて何処へ秋の風

 

月よりの風  西村和子

かんばせに名月よりの風まとも

老松のかひなに乗りし今日の月

かへりみて我が月かげの淡かりき

いま一度月仰ぎたり鍵を手に

素揚げしてこれぞ茄子紺照りまさり

愕然と秋至りけり関八州

西国の塔乗口の葭簀褪せ

長州の気性鮮烈櫨紅葉

 

木 犀  中川純一

飛び出でて蝙蝠あてどなかりけり

野分雲そろそろ米も買ひ足さむ

蟷螂の夫恍然と齧らるる

蟷螂のすがる地蔵の涎掛

金風や光の粒は昨夜の星

木犀の香る七曜はじまりぬ

木犀や雨の匂ひの風立ちて

萩に触れ芒かはして蕎麦庵へ

 

 

◆窓下集- 11月号同人作品 - 中川 純一 選

夏休となりのトトロ抱つこして
山田まや

向き変り須磨の風来る風知草
前田星子

校長も家族を連れて踊の輪
島野紀子

蓋とれば細工物めく鱧尽し
小野雅子

目の合ひし蜥蜴と我の時止まる
吉田泰子

丸に金金毘羅さんの渋団扇
西山よしかず

島焼酎今宵は踊り明かさむと
下島瑠璃

老ひの背を伸ばせ伸ばせと雲の峰
村地八千穂

水引草風をなぞつてをりにけり
山本智恵

草叢の水引草は母の花
政木妙子

 

 

◆知音集- 11月号雑詠作品 - 西村和子 選

清張の男と女戻り梅雨
井出野浩貴

幾たびも五山の廻る盆燈籠
米澤響子

血脈の絶えて凌霄咲き続く
牧田ひとみ

雑踏に交じりて涼し京ことば
中津麻美

糸蜻蛉水面の影はさだかなり
吉田林檎

緑陰の一卓をわが城として
山田まや

祇園囃沸き立ち鉾の揺れに揺れ
佐貫亜美

桑の実やジャズのもれ来る蔵座敷
影山十二香

手真似して踊の輪には入らざる
成田守隆

さぼつちやえさぼつちまえと蟬の声
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

週末に辿りつきけり夜の秋
井出野浩貴

働き盛りの作者であることが一読してわかる。暑い最中も一週間汗をかきかき働いてきた。やっと週末になったという思いが「辿りつきけり」に現れている。「夜の秋」という季語は、立秋前に秋の気配を感じる夜の季節感を表すものだが、ここに安堵の気持ちを読み取ることができる。
現役で働いている人々、子育てに振り回されている人々には、こうした人生の夏の作品を大いに詠んでもらいたい。人生の今しかできない句を意識して作ってほしい。

 


向日葵を好みて笑顔至上主義
中津麻美

「笑顔至上主義」とは耳慣れない言葉だが、この句を読んであかんぼうの唯一の武器は笑顔である、ということを思い出した。悪人が危害を与えようとしても、無垢な笑顔に出会うと手を出せなくなるということは真実だ。どんな時も誰に対しても笑顔に勝るものはないと信じて生きている人をこう表現したのだろう。
向日葵という季語はつき過ぎのように思われるが、ではどの季語に語らせようかと考えても、これしか浮かんで来ない。その意味では多くを語っているのだ。

 

滝見茶屋客も主も耳遠く
影山十二香

滝見茶屋は滝の間近にあるので、ただでさえ人声は奪われやすい。その上、客も主も耳が遠いというのだから、どんな情景か想像するだにおかしい。しかしこうした場所でやりとりする言葉はだいたい決まっているのだから、聞き取りがたくても話は通じてしまうのだろう。本人たちは大まじめでも、傍から見ていると喜劇になる。そのいい例。

 

西馬音内盆踊り  行方克巳

立てかけしごとをちの滝こちの滝

山清水くねりつつ行く葛の花

爪に火を点す浮世を踊りけり

やさしうてごつうて男踊りかな

きはめつき男踊りの女かな

帰るさの彦左頭巾をはね上げて

暗がりに踊り崩れの二三人

踊り笠たたみて立てば蹴転けころめく

 

真葛原  西村和子

真葛原一刀両断単線路

突兀と顕れ上州の霧の山

朝霧の香を部屋深く肺深く

霧飛ぶやヒマラヤ杉は翼垂れ

蹂躙を咎めず許さず螢草

おほかたの事は赦され夢二の忌

草々の露踏み分けて画室訪ふ

邯鄲や風のささめきさへ怖れ

 

不 眠  中川純一

八月の芝を突つ切り三塁打

盆花を選りつつ頼りなき視力

蟬しぐれ浴びつつ句碑の女文字

句碑の文字判じて腕の蚊を叩く

おやこんなところに萩とふれてみる

新涼の手ごたへ画布の空色に

嬉しさの不眠もありて明易し

水引草咲いて血圧正常値

 

 

◆窓下集- 10月号同人作品 - 中川 純一 選

探幽の龍と翔びゆく昼寝かな
佐瀬はま代

湯引きして一瞬鱧の花開く
黒木豊子

帯きゅつと締め炎天に立ちむかふ
小野雅子

膝折りてこの鈴蘭を賞でし日も
村地八千穂

狛犬の背に傾ぎて濃紫陽花
村松甲代

朝顔の大輪風に浮き上り
山田まや

仲見世の裏手に購ひし団扇かな
黒須洋野

見せる人無き黒髪を洗ひけり
松井洋子

浅草の雑踏にゐて青鬼灯
島田藤江

たまさかは夫婦気の合ひ冷奴
川口呼鐘

 

 

◆知音集- 10月号雑詠作品 - 西村和子 選

鉾建の縄屑もまた匂ひ立ち
米澤響子

化粧室涼しゲランの瓶の青
牧田ひとみ

海芋咲く町のどこにも水の音
吉田泰子

十薬をきれいに残し寺男
大橋有美子

新橋をポンヌフと呼び巴里祭
吉田林檎

夏雲やキッチンカーは翼持ち
志磨 泉

ざら紙のやうな思ひ出梅雨じめり
中野のはら

涼しさや石の館に木の調度
井出野浩貴

一滴のすでに大粒大夕立
磯貝由佳子

遺失届書く首筋に額に汗
井戸ちゃわん

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

しんがりの大船鉾のもう見えず
米澤響子

祇園祭の後祭あとまつりのしんがりである。京都の祇園祭は元来前祭さきまつりと後祭の二回に分けて巡行が行われていたらしいが、このところ七月十七日に全ての山と鉾が巡行を行っていた。数年前に元の形に戻そうというので、後祭の巡行が復活した。私も久しぶりに後祭の巡行を見に行ったが、最後に登場する大船鉾の堂々たる歩みは感動的だった。
この句は「もう見えず」と言っていながら、祇園祭の全ての巡行の様子が眼裏に蘇ってくる。特に今年は三年ぶりに実施された巡行を、京都の人々はもちろん、全国の人々が心待ちにしていた。無事に巡行が終わったのを目の当たりにして、もう見えなくなった大船鉾の名残を惜しんでいる。

 


小児科の二階に眼科花うばら
𠮷田泰子

町医者の情景だろう。父親か母親が小児科医院を開業し、その二階に息子か娘が眼科を担当しているのだろう。大病院でないことを語っているのは「花うばら」の季語である。なんでもない郊外の光景だが、一読住宅街の個人医院だなということがわかる。そこが名医だとか、自分の世話になっているというわけではなく、見かけたままを詠んだ俳句。こんなことは俳句でなければ作品にはならないだろう。

 

春寒し対話の顔に口のなく
大橋有美子

疫病の流行で人と会うときはマスクを掛ける習慣が身について三年目となる。本来冬の季語であるマスクが無季のもののように詠まれ始めて久しい。この句は「マスク」という季語は使わず、そんな疫病禍の暮らしぶりと心情を詠んだもの。
対話するとき、目を見て声が聞こえれば不自由はなさそうに思えるが、口元の表情が見えないということは、考えてみれば心許ないものだ。同じ言葉でも、微笑みながら話しているのか、口を皮肉そうに曲げながら話しているのかわからない。その寒々しい心境を託しているのが季語である。

 

佐渡薪能  行方克巳

うちなびき草も青田もおけさぶり

峠越島にもありて花さびた

炎天を行く癋見がほ仏がほ

鳶の笛ひいよひよろと薪能

海山の間昏れ切り薪能

忘れ草咲いて忘れぬことひとつ

波音のとんどとんどと夏障子

鬼太鼓の里のいよいよ緑濃し

 

後 祭  西村和子

関ケ原越えていよいよ雲の峰

酌み交はしをるうち暮れぬ川床涼み

御神水なみなみ準備鉾を待つ

先触れの白鷺一羽鉾巡行

鉾巡行大路の緑突き抜けて

神宿りたり復活の鉾頭

朝日燦大船鉾の龍頭に

大船鉾仰げば雲の退りけり

 

鰻 重  中川純一

鰻重の方寸のまづ好もしく

兄事する人と鰻重並べ食ぶ

狼狽のごとき滴りたてつづけ

つんつんと一人前の目高の子

落としたる句帳たちまち蟻が検見

炎天や羊の群れが道塞ぎ

メロン切り父と娘の時戻る

ちよんちよんと文字摺草を描く絵筆

 

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選

寛解の手足のびのび菖蒲風呂
黒山茂兵衛

晋山の散華さながら初夏の蝶
巫 依子

羅や今日一日は私の日
御子柴明子

麦秋やかなたに光る鳰の海
江口井子

ハンカチのアイロン掛けは好きな家事
小倉京佳

青葉昏ければ血潮の鎮まらず
井出野浩貴

時流には逆らはず生き昭和の日
折居慶子

あたたかや妻を励ます嘘少し
井戸村知雪

領事館跡を離れず黒揚羽
くにしちあき

腹の虫おさまるまでの草毟り
小池博美

 

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選

園丁の去りジャスミンの香の残り
牧田ひとみ

魚の名訊き返しては島焼酎
藤田銀子

梅雨寒し寒しと母が又羽織る
影山十二香

緑蔭に坐す緑蔭に解くるまで
井出野浩貴

面差しの似てきし姉妹さくら餅
島田藤江

ふやけをり梅雨の茸も日輪も
高橋桃衣

薔薇の花疎みて第二反抗期
中津麻美

柏餅買うてアップルパイも買ひ
中野のはら

町医者の転勤知らず燕来る
島野紀子

網戸越し我も叱られゐるごとし
𠮷田林檎

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

水遊び母もスカートたくしあげ
牧田ひとみ

水遊びの情景は言うまでもなく、子供達が楽しそうに水を掛けあっているのだが、その子供達はまだ親の手を離れていない年齢ばかりだ。子供達の動きを描いているのだが、ふと気がつくとその子の母親もいつしか夢中になって、水の中に入っている。当然若い母親だから「スカートたくしあげ」という情景はどきりとさせる。
普通は子供の動きに焦点を当てるのだが、子供を連れて来た母親を描いた点で目新しい。当の本人は子供の世話に夢中になっているが、客観的な視線には眩い。

 


曾良眠るとりわけ青葉濃きあたり
藤田銀子

奥の細道の随行者として「奥の細道随行日記」を遺した河合曾良は信濃の出身だったが、壱岐勝本で客死し、その墓も当地にあるという。壱岐を訪ねた折の作であろう。九州本土から離れたこの島は、元々壱岐の国であった。俳人にとっては曾良の墓に心惹かれる。
この句は墓を訪ねたというよりも、遠望の作であろう。「とりわけ青葉濃きあたり」の描写はあるがままの写生であるが、曾良に寄せる思いの濃さも語っている。

 

 

囀や向ふ岸より笑ひ声
島田藤江

笑い声が聞こえてくるというのだから、声が届かぬほどの大河ではないだろう。春の陽気に誘われて、人々が川岸を散歩したり野遊びを楽しんだりバーベキューをしたり、という光景を想像した。若者達のグループから笑い声が起きた。川のこちら側でも同じような声が沸き起こっているに違いない。
そんなとき、此岸にも彼岸にもと両方描くのではなく、向こう岸の声に焦点を当てたことは巧みだ。空間の広がりや川の幅、囀が聞こえる空の高さなど描くことになったからだ。こんな光景に出会うと、人の心も明るくなる。