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夜 風  西村和子

銅鑼一打全天の夏至告げ渡る

プロコフィエフ耳に焼肉喰らひ夏至

蹲る薪小屋味噌蔵螢飛ぶ

酔眼を凝らせば消ゆる螢かな

沢音の泡立つあたり草螢

宵山の風を袂に姉小路

夕風のいつしか夜風鉾提灯

宵山の路地より圖子ずしへ亡き人と

 

五体投地  行方克巳

一昔二昔はや螢の夜

ししむらはししむら思ひ螢の夜

螢の夜含み笑ひのそれは「駄目ノン

山荘に朝一クール宅急便

あめんぼの五体投地の水固き

蟬の屍と同じ数だけ蟬の穴

休暇明け心変はりの我にひとに

休暇明け大人びしことひとりごち

 

蟻の穴  中川純一

蟻の穴二つ並んで大わらは

青梅雨の仁王のかひな拗くれる

青葉闇法語ならざる烏啼き

人待てば四万六千日の星

泣きながら抱かれて祭浴衣かな

めづらしく女将が舞へり夏座敷

網戸替へ外がすつきり見えてゐる

行列の汗の背中の進まざる

 

 

◆窓下集- 9月号同人作品 - 中川 純一 選

昼顔のあつけらかんと縺れあふ
井出野浩貴

七七忌寺領離れぬ黒揚羽
森山淳子

立葵白きばかりが暮れ残り
松井洋子

文字摺や遠流の島の能舞台
前田沙羅

椎の花胸騒ぎして振り返る
林奈津子

螢火を導く螢ありにけり
山田紳介

ダービーの美しき脚揃ひけり
鴨下千尋

山峡に灯連なり懸り藤
石澤千恵子

艶々の整列桐箱のさくらんぼ
影山十二香

キタキツネ行く初夏の滑走路
大塚次郎

 

 

◆知音集- 9月号雑詠作品 - 西村和子 選

レース着て鎌倉駅へ老姉妹
牧田ひとみ

たれかれの亡きことに慣れ胡瓜揉
井出野浩貴

青蜥蜴引き返すとき迷ひなく
岩本隼人

いつ見ても何も起こらず蟻地獄
田代重光

梅雨滂沱中洲を消してしまひけり
廣岡あかね

町の名の旧きを守り神輿舁く
藤田銀子

昼顔へしつかりおしと声をかけ
佐貫亜美

母の日の卓なれど子の好きな物
島野紀子

柏餅子ども等はもう帰らざる
黒羽根睦美

黒日傘たたむ素性を明かすごと
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

玉葱や専業主婦と濃く記す
牧田ひとみ

「専業主婦」とは職に就かずもっぱら家事に当たる主婦、「主婦」とは一家の主人の妻、一家を切り盛りしている婦人と定義されている。私自身も専業主婦であった時代が長かったが、今の若い女性は結婚しても子育て最中でも、専業主婦という境遇を通す人は少ない。この言葉自体私達の年代が最後であろうと思うことしきりだ。
何かの折に職業や身分を書かねばならぬ状況だったのだろう。得に職業もない、若い時の仕事を続けているわけでもない。専業主婦と思ったとき、「濃く記す」という表現に誇りと開き直りのようなものをこめたのだろう。
玉葱は夏の季語だが、家庭の野菜籠には一年中あるものだ。旬を迎える夏は甘味が強く生でも食べられるが、どの季節でも西洋の鰹節といわれるくらい料理には欠かせないものだ。そのありふれた野菜である玉葱を季語として配した点に、この句の味わいがある。

 


梅雨滂沱中洲を消してしまひけり
廣岡あかね

「出水」という季語は梅雨の豪雨によって河川が氾濫することをいうが、今年も各地で被害が起きた梅雨だった。梅雨時の雨が降り止まない時、多摩川の中洲がみるみるうちに沈んでしまったことを私達も目にした。ニュース画面でもこういった情景は梅雨時だからこそ見られる。
中洲であるということがはっきり見えていたのに、見る間に消えてしまったという豪雨の激しさを描いている。

 

 

昼顔へしつかりおしと声をかけ
佐貫亜美

昼顔は近くの草や金網に絡みついて、はかなげな花を咲かせる。頼りなげなその花は、女性の性格や生き方にも譬えられ、映画やテレビドラマの題名としても親しい。登場する女性は美人で自立せず、はかない魅力に満ちているので、男性としては放っておけない存在なのだろう。
そんな昼顔の本質をまともに描くのではなく、目にするとついこんなふうに声を掛けたくなるという具合に打ち出しているこの句も、写生が根底にあるということを忘れてはなるまい。作者の声が聞こえてくるようではないか。

 

 


訃 音  西村和子

三階の窓覗けさう時計草

強まらず卯の花腐し止みもせず

覚めぎはの夢にも卯の花腐しかな

夏霧や甲斐の山襞削りつつ

渓声も梅花卯木も生まれたて

全貌を見せずかがよふ皐月富士

訃音到るや東京梅雨に入る

麗しき五月に忌日加へたり

 

外来種  行方克巳

新しきパスポートはや梅雨じめり

どこへ飛ぶあてなき梅雨のパスポート

夏の惨劇おまへらはみな外来種

ひゆんひゆんと青大将を振り回す

雪残る利尻富士てふ剽げもん

夏雲の戴冠見よと利尻富士

網戸青々灯して逃げも隠れもせず

白南風や毎日カレー曜日でも

 

恐 竜  中川純一

恐竜は忘れて兜虫に夢中

画廊夏花束抱いて男来て

失恋を忘れてかぶりつく西瓜

夏ドレス透けて青山大通り

大銀杏青葉たぎらむばかりかな

頰寄せて目高のぞいて姉弟

じたばたと砂浴二秒雀の子

カウンター越しにとんかつ屋の金魚

 

 

◆窓下集- 8月号同人作品 - 中川 純一 選

青鰻や女将を口説くふりばかり
藤田銀子

砂丘から海を見ている春日傘
山田まや

汽水湖の風の尖れる氷下魚釣
佐藤寿子

魚籠揺らし水撥ねとばし大山女魚
帶屋七緒

住み馴れし我が庭眺め春惜しむ
村松甲代

初夏のオールの零す湖の青
佐貫亜美

異邦人われか新大久保の朱夏
三石知左子

靴振れば小石ぱちりと日永し
森山栄子

一列に釣銭並べ草餅屋
中津麻美

ひざぐりの間中めし屋のさより刺し
田代重光

 

 

◆知音集- 8月号雑詠作品 - 西村和子 選

食ふ寝るに困らず諸葛菜の庭
藤田銀子

余花に遇ふ旅に余白のあればこそ
井出野浩貴

跡取りのおつとり見上ぐ武者人形
牧田ひとみ

階段を飛び降りてみせ子供の日
影山十二香

花明りあへて歩調を合はせざる
𠮷田林檎

ソックスは白く三つ折り夏に入る
三石知左子

涅槃図へ割り込むやうに拝しけり
山田まや

白黒白白白雨の夏燕
小山良枝

少女らは前髪大事若葉風
森山栄子

田を返す石州瓦輝かせ
高橋桃衣

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

若布干すおやぢとは口利かぬまま
藤田銀子

主語はあきらかにされていないが、「おやぢ」という言葉から息子であることが想像される。若布を干すという作業は、若布が採れる間のわずかな期間なので、家族総出で浜辺で茹でたものをすぐさま干すという、天候を見ながらの仕事となる。手伝わない訳にはいかないのはわかっているのだが、最近父親と折り合いがよくない。そんな仏頂面の息子の姿が見えてくる。
そういった家族関係の経緯を、わずか十七音で表現するのは案外難しいものだ。「おやぢ」という呼び名を効果的に用いた作品。

 


軽暖や振れば真白きたなごころ
吉田林檎

「軽暖」は薄暑の傍題だが、なかなか使いこなすのは難しい。薄暑の頃、こちらへ向かって手を振っている若い女性のてのひらの殊更なる白さに、季節感と美を感じ取ったのだろう。音読してみると軽やかな動きが見えてくるようだ。てのひらを「たなごころ」と表現しているのも成功している。川端康成に「掌の小説」というのがあるが、こうした文学的な言葉も使いこなしている。

 

 

陣痛の波の引く間に柏餅
三石知左子

作者の産院の医師という職業が、この句の鑑賞の手助けになる。今まさに出産しようとしている女性が柏餅を食べているのではなく、その場に立ち会っている医師や看護師が食べているのだと解釈したい。
初産の場合、陣痛が起きてからすぐに出産となるわけではなく、何時間も痛みに耐えて全力を尽くさねばならない大仕事である。医師や看護師は経験上すぐに出産という事態になるわけではないことを、知り尽くしているのだろう。だからこそ、陣痛の波が引いている間に、柏餅を食べようという発想も行動もありうるのだ。「柏餅」である点に、あんぱんやケーキとは違って、生まれてくる赤ん坊への祝福の意味もこめられていよう。

 

 


滝  西村和子

小さきを水尾にかばへり通し鴨

すでにして滝音届く木の根道

滝五裂十裂千々に砕けたり

滝風に打たれしのみに怯みたり

滝行のつむりと見ゆる巌かな

爪先をきちきち刻み神輿舁く

神輿集め雨の洗礼浴びせたり

東京の夜空初々しき五月

 

雨 蛙  行方克巳

前線に躙り寄りけり雨蛙

少年の眉目寄せたり雨蛙

これ以上近付かないでと雨蛙

ぎしぎしや昔極刑村八分

大方は散るべく咲いて柿の花

鰻屋の婆の口上世知辛く

鰻重の御重の蓋の松と梅

父の日も蕎麦焼酎の蕎麦湯割り

 

筒 鳥  中川純一

筒鳥や乾きそめたる草踏んで

遠足やをとこ走りに女の子

浅間噴きアイスクリーム濃く甘く

もんどりを打つて鯉幟の父さん

楡若葉吹き抜け帽子攫ふ風

どくだみが咲くどんな世にならうとも

定年の後にもありし五月病み

 

 

◆窓下集- 7月号同人作品 - 中川 純一 選

行春やたたむ和服の日の匂ひ
山田まや

春宵の米粒ほどのピアスかな
吉田林檎

レントゲンに映る血栓春寒し
田代重光

天ぷら屋しながき手書きふきのたう
吉田泰子

生きてゐる証の木の根明きにけり
谷川邦廣

すかんぽや里に親無く家も無く
吉澤章子

そぼ降れる癌病棟の花の雨
八木澤 節

交番に大人の迷子春の宵
三石知左子

すかんぽや川沿ひに旧る町工場
青木桐花

トラムにも坊つちやん列車にも落花
松井洋子

 

 

◆知音集- 7月号雑詠作品 - 西村和子 選

つばくらや雨の城下の黒瓦
井出野浩貴

五十年経てば骨董春灯
高橋桃衣

孫弟子の老いて華やぐ立子の忌
藤田銀子

戒名のやうな俳号四月馬鹿
影山十二香

信仰に闘ひの日々松の芯
牧田ひとみ

括られしより生き生きと豆の花
松枝真理子

駅弁の酢の匂ひ立つ夏隣
田代重光

春昼の画廊の棚の砂時計
中津麻美

九十一の春欲ばらず生かされて
山田まや

吹かれては三色菫ウインクす
吉田泰子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

さへづりのけふは姿を見せにけり
井出野浩貴

春になって百千鳥の声が耳を楽しませる頃、雀や鶯とは違って耳新しい囀を降り注いでくれる小鳥がいる。この鳥はいったい何だろう、どんな姿をしているのだろうと以前から気になっているが、一向に姿を見せない。そんなことが誰にもあると思う。
この句のポイントは「は」一音である。いつもは声だけで親しんでいる存在が、今日は珍しく姿を見せた。その発見の喜びが一句になった。昨日も一昨日も囀を聞いているのに、今日だけその姿を見た。他から区別して際立たせる場合の「は」である。

 


ぱかんぽこんかぱんこつぽん港春
高橋桃衣

同じような擬音語でありながら、よく読んでみると、全て違う。動詞が一つもない。でもこれだけで、のどかな漁港の春の昼間であることが描けている。港といっても横浜港や神戸港ではない。船と船が小突きあったり、杭にぶつかったりする音を、ひとつひとつ聞き取って描き分けている。その工夫を読み取りたい。

 

 

花水木夕暮は母寂しがる
影山十二香

高齢のお母さんだろう、日の暮に寂しい思いをするのは、働き盛りや子育て最中の年代にはわからない感情かもしれない。人生の一般的な仕事をやり終えて、夕暮の時間を持て余す年代になると、ふと寂しさが襲ってくる。そんなお母さんを思う情が伝わってくる作品だ。
これが秋の夕暮だと付きすぎになるが、ようやく日も長くなって街や庭に花水木が咲く季節に詠んでいる点に注目した。「花水木」は本来の水木の花ではなく、アメリカ花水木である。私の住む町にも街路樹として植えられ、白い花びらがひらひらと風に揺れる様は、人の心も明るくする。明治四十五年東京市長だった尾崎行雄がワシントン市に寄贈した桜の苗木の返礼として、大正四年に贈られてきたそうだ。百年経って東京の街にもすっかり根付いた。
この季語によって、お母さんが深刻な寂しさに囚われているのでもなく、めそめそしているわけでもないことが語られていよう。

 

 


三 溪 園  西村和子

尺取虫一寸先も見えてゐず

逸りては堰かれては鳴る春の水

渡れとて飛石いくつ春の水

水迅し飛石を縫ひ芹あら

この庭や山吹の谷蕗の海

雨脚の縦のち斜め松の芯

裏木戸を封じ木香薔薇盛り

朝刊に包みつややか芹の束

 

大徳寺納豆  行方克巳

春荒の波にこと問ふ都鳥
空也上人
春なれや南無阿弥陀仏なんまいだ

行春や地獄巡りの万歩計

不意に五月日めくり怠けゐたる間に

六道の辻の片陰濃かりけり

大徳寺納豆一粒半夏生

夏めくや草木虫魚人われも

固まつて亀の子束子みたいやね

 

蠅 生 ま る  中川純一

蛇坂の先に寺あり萩若葉

屈託も忖度もなく蠅生まる

赤心のありやと問へる菫かな

少年に少女駆け寄り花は葉に

春日傘かしげエッフェル塔見上ぐ

うららかや売物の椅子道に出し

行春やボート乗り場をただながめ

肩幅の歩きだしたり入学子

 

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

一夜にして街にあふるる春コート
井出野浩貴

温かき子の手を頼り梅見かな
村地八千穂

立子忌の月に寄り添ふ星一つ
小池博美

亀鳴くや月のうさぎに恋をして
野垣三千代

丁子屋の湖へ開けたる春障子
米澤響子

箱の中息して届く蕗の薹
鈴木ひろか

古き良き昭和の失せて年明くる
谷川邦廣

鶯や山懐に父母眠り
横山万里

前かごにスケッチブック春きざす
中津麻美

山積の本そのままに寒明くる
黒羽根睦美

 

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

まづ詣で懸想文売探しけり
山田まや

あるじなき屋敷のしだれざくらかな
井出野浩貴

裸木に凭れ二脚の高梯子
大橋有美子

手相見の人相あやし春の宵
松枝真理子

春昼の鏡の顔の他人めく
牧田ひとみ

節分の鬼を追ひかけ京ひと日
中野のはら

若菜摘む万葉人の血を継ぎて
佐瀬はま代

風光るチアリーダーの力瘤
前山真理

好きな色ばかりを摘まむ雛あられ
松井秋尚

毛糸編む絵を描くやうに色を替へ
山﨑茉莉花

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

埋火に炭足して待つ夜の稽古
山田まや

「埋火」「炭」という季題は令和の現在、日常生活では親しみが薄れてきた。電気やガスによる暖房が普及して、千年前から用いてきた、炭で暖を取るということはほとんどなくなった。したがって炭火を消すのではなく、灰の中に埋めて火種を長持ちさせるためのものということも常識でなくなった。表面的には消えかけたように見えるものが実は燃えているということから、胸中の比喩として千年前から歌に詠まれてきた。作者は茶道教授なので、日常的に埋火に炭を足すというようなことを行っている。句の後半に至って、茶道を習いに来る弟子を待っている時の静けさや緊張感が伝わってくる。しかも「夜の稽古」である点に感銘を覚えた。作者は今年九十一歳である。こんな時、投句用紙に記された年齢や職業が鑑賞の手助けになるのだということを、皆さんも心に留めておいていただきたい。

 


春の夜の食器洗ひ機うたひだし
佐瀬はま代

食器洗い機というような味気ない家電品が、句の題材になるとは私も知らなかった。食器洗い機用洗剤がスーパーでは売っていない頃からこの恩恵を受けている私としては、はっとさせられた一句だ。最近息子の家に行って、食器洗い機の音が静かなことに驚いたが、まさか曲を奏でるような新機種が出たということではあるまい。
食後のひと時、食器洗い機に働かせてテレビを見たり家族と話しをしたりするひと時は、主婦にとってうれしい時間だ。そんな思いを「春の夜」という季語と「うたひだし」という描写に託した一句。いつもの機械の音がまるで歌っているかのように聞こえるのは、作者の幸福感を表していよう。

 

 

風光るチアリーダーの力瘤
前山真理

チアリーダーといえば応援団の花形で、バトンをくるくる回す動きやミニスカートの眩しい服装などに目が行きがちだが、この句は「力瘤」に焦点を当てた手柄。季語は動かないし、笑顔や溌溂とした若さの裏に、たゆみない練習によってできた力瘤も眩しい。このように一般的な視線ではなく、自分なりの発見と感動があることで、俳句は際立ってくる。

 

 


春 動 く  西村和子

吊橋の彼方は鉄都春動く

つちふるやかつて石炭積出し港

西国の山々まろし春夕焼

料峭の篁を攻む山気かな

手水鉢紅白梅の影沈め

籠れるは怒気か怖気か袋角

袋角どつくんどつくん血の通ふ

鶯に普請の音の活気づく

 

齋藤愼爾永眠  行方克巳
令和五年三月二十八日 昭和十四年八月二十五日生れ(満八十三歳)

花の雨飲食厭になりにけり

花冷の補聴器とれしまま眠る

しんちやんこつち/\と杏子花の昼

断末魔ありしともなく花の昼

湯上りのやうな死顔花の昼

雛壇に齋藤愼爾もう居ない

喪ごころのこの一椀の蜆汁

さくら咲きさくら散りわれ老いにけり

 

木 の 芽 時  中川純一

うららかやパンの角からジャムこぼれ

思ひ出し笑ひに応へ水温む

雛流すセーラー服の膝ついて

花ミモザ老嬢ジャンヌひとり棲む

花の雨ポニーテイルの裸像濡れ

楓の芽窓探し当て触れもする

芽吹きをり上皇后の名の薔薇も

寝姿の羅漢の仰ぐ木の芽かな

 

 

◆窓下集- 5月号同人作品 - 中川 純一 選

通されて小声になりぬ冬座敷
大橋有美子

二千年前より愚かクリスマス
井出野浩貴

歌かるた坊主の歌をまづ覚え
山近由起子

微笑みの自づとこぼれ大熊手
谷川邦廣

立春の空に消ぬべく夕烟
中田無麓

帯結ぶ鏡の中の余寒かな
山田まや

甘え寄る馬の睫毛に春の雪
池浦翔子

初糶の片手に持てぬ出世魚
前田星子

間取図のパステルカラー春隣
中津麻美

いくばくの余命頂く寒卵
折居慶子

 

 

◆知音集- 5月号雑詠作品 - 西村和子 選

三門に上れば近し春の山
松枝真理子

人混みにをりて一人の師走かな
山田まや

春浅しこの道やがて岐れ道
小倉京佳

大寒やぴつと人差指を切る
高橋桃衣

縁側へ声かけて買ふ寒卵
小池博美

生涯の後半戦へ初日差す
吉田林檎

三方も撒く勢ひや福は内
三石知佐子

ふるさとの丸餅焼飛魚届きけり
大野まりな

日脚伸ぶ里より来たる箒売
吉澤章子

家事室の遺影の母へまづ御慶
石原佳津子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

焼いもや難しいこと考へず
松枝真理子

上五の切字が効果的な句。この切字によって「難しいこと考えず」との間に大きな断層があることを示している。表面的にはこう言っているが、実は直前まで難しいことを考えていたのではないか。しかし焼いもを食べるときぐらい眉間に皺を寄せず、このおいしさと温かさを単純に楽しもうという思いを読み取った。
冬の季語である焼いもは、江戸時代に現れたという。だいたい女子供の好物と思われてきたが、歳時記には男性の例句が多い。現代は焼いもばかりでなく、スウィーツ好きの男性も恥ずかしい思いをしない時代になったが、焼いもが大好きな女性こそ、実際に食べてこそ、いい句ができるに違いないと、男性たちの例句を読むにつけて思う。
湯気を立てているほくほくの焼いもを食べてこそできる、こういう句を、女性たちよ、目指そう。

 


もう風を感じてをらず枯蓮
山田 まや

枯蓮にもいろいろな段階があって、冷たい風に吹かれて寒そうだとか、心許なさそうだとか思ううちは、まだ感覚が残っているように思える。しかし、枯れ切ってしまって風に抗ったり跳ね返したりする力も無くなったような枯蓮は、何も感じていないようだ。それを「もう風を感じてをらず」と表現した点に、きめ細かな描写力が出ている。大雑把に枯蓮を眺めていては、こうした句は詠めないだろう。大いに学ぶべき写生句。

 

 

鷽替やはつたり多き我が一世
小倉京佳

「はつたり」とは「実情よりも誇大に言ったり、ふるまったりすること」と広辞苑にある。「鷽替」は天神様の境内で、過去の嘘を取り替える行事だ。小さな木彫の鷽という鳥を、宮司や巫女さんまで巻き込んで、「替えましょう、替えましょう、うそ替えましょう」と唱えながら見知らぬ人たちと取り替える行事に、私も大阪の天神さんで加わったことがある。
はったりを利かすとは、自分を鼓舞する場合にも必要だし、嘘というわけではない。しかし心のうちにやましいものが残る。「鷽替」という季語に託して、心中を明かした句として注目した。このような本音を託す句を、この作者には期待している。

 

 


京 へ  西村和子

こののちの四温をたのみ旅仕度

暮れきらぬ雪の伊吹の面構

雪の原越ゆやゆく手の茜空

寒靄や屏風と迫る比良比叡

先斗町出はづれ朧月高し

しづり雪山門直下砕け散り

立春の音漲れり水路閣

満目の冬芽うずうず大銀杏

 

鳥 雲 に  行方克巳

国境ひ燃えてをるなり鳥帰る

ポケットにいつの半券鳥帰る

鳥雲にマリリンモンローノーリターン

鳥雲に入る誰彼の死の噂

雁行待ちの銀河鉄道二十五時

序破急のまた序破急の春の波

猿真似の猿に笑はれ梅祭

婆婆羅的孤独死はあれ梅二月

 

鴨 一 羽  中川純一

揚船の塗り直されて春を待つ

昨夜の豆自転車置場にもこぼれ

七人の小人ころころ蕗の薹

浅草の七味屋今も実千両

観梅や砂糖のやうな雪が降り

春燈娘の美貌母凌ぎ

付添の病院広き余寒かな

三四郎池蝌蚪未だ鴨一羽

 

 

◆窓下集- 4月号同人作品 - 中川 純一 選

寒波来ぬ手錠の腕に針を刺し
田村明日香

蠟梅に日向の色ののり染めし
山田まや

風の音連れて帰りし柚子湯かな
井出野浩貴

人目には気楽な暮し日向ぼこ
井戸ちゃわん

福達磨妊婦のごとく抱へけり
吉澤章子

肥えし子も痩せしも揃ひ屠蘇祝
松井洋子

二日はや足の向くまま浜日和
芝のぎく

お年玉とびきりの笑み返さるる
大村公美

あどけなさ残る巫女より破魔矢受く
政木妙子

うら若き女鷹匠黒ずくめ
成田守隆

 

 

◆知音集- 4月号雑詠作品 - 西村和子 選

都心の灯したたつてゐるクリスマス
吉田林檎

俳縁のつくづく奇縁初句会
松枝真理子

ポインセチア表紙の反りし聖歌集
小池博美

祝箸十膳へ名や墨香る
牧田ひとみ

散紅葉枯山水をささやかす
大橋有美子

放蕩も不犯も詩人星冴ゆる
井出野浩貴

鴨泰然雨を嘆くは人ばかり
藤田銀子

点滴の速度確認初仕事
三石知佐子

スケートの大臀筋に見惚れけり
中野のはら

マフラーをはづして見せるネックレス
田代重光

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

大寒や向かひ風こそわが力
吉田林檎

大寒の頃、真っ向から吹きつける風は一年で一番冷たく厳しい。「追風に乗って」という言葉があるように、順風は追風、逆風は向かい風である。普通なら妨げになるような風を、これこそ我が力になると言って憚らないのは、若さの故か強がりの故か。
ピンチはチャンス、という考え方があるように、厳しい逆風こそ自分の力として乗り切ろうという意志を表した作品。

 


古暦にはかに心細くなり
松枝真理子

この暦は日めくりだろう。年末の暦を季語では古暦というが、一年間毎日破いては捨てて来たものが、ある日急に残り少なくなったなあと思った時の実感。それを「心細く」なったと表現している点に情がある。十二月も半ばを過ぎた頃のことだろうか。「にはかに」と言う言葉も、昨日までは気づかなかったことの発見を表している。

 

 

冬灯書庫より死者のささめ言
牧田ひとみ

図書館の光景だろう。季語から寒々しい空間が伝わってくる。書庫から死者の私語が聞こえてくるとは、鋭敏が感覚である。書庫に収められている本も、現代のものではなく古典であることが語られている。
冬の書庫の静寂の中に身を置くと、この世にない人々の声が聞こえて来るような気がして、背筋がぞおっとする。冬灯も乏しいものに違いない。

 

 


白 味 噌  西村和子

愚かなる人類に年改まる

身の軋み壁の亀裂も寒に入る

真夜覚めて微光不気味や寒の内

負けつぷり潔きかな初相撲

弓なりに堪へあつぱれ初相撲

破魔矢受く疫病えやみ三年祓ふべく

練るほどに白味噌艶冶小正月

さきがけの白梅五粒陰日向

 

寒 の 水  行方克巳

氷りけり風波のその細波も

下剋上よりも逆縁雪しづり

着膨れてマスクのうへの鼻眼鏡

年寄の嫌みなか/\着ぶくれて

着ぶくれてこの世せましと思ひけり

初夢の終りさんかく まる しかく

血の管を滌ぐ寒九の水をもて

寒の水ほんたうはこれが一番うまい

 

泣き黒子  中川純一

初詣般若心経漏れ聞こえ

獅子舞のすはと伸びしが一睨み

泣き黒子ばかり目を惹き初映画

梅早し見えてきたりし待乳山

人日の妻に購ひたる肌守

パエリアを請はれ俎始かな

鰻屋の壁の羽子板ひとつ殖え

春近き日の斑ころがり心字池

 

 

◆窓下集- 3月号同人作品 - 中川 純一 選

リヤカーの二人子下ろし大根乗る
島野紀子

新海苔や炙り上手と夫おだて
池浦翔子

ていねいに遺影を拭くも年用意
米澤響子

秋深し猿の腰掛席二つ
井戸村知雪

みちのくに風の咆哮鎌鼬
小野雅子

古セーターまとひて心さだまれる
井出野浩貴

暮るるまで枯野に居りて枯野詠む
山田まや

諳ずる東歌あり山眠る
前田沙羅

薄切りの夕月色の大根かな
山本智恵

下総の土塊荒き冬ひばり
吉田しづ子

 

 

◆知音集- 3月号雑詠作品 - 西村和子 選

麓まで葡萄畑の連綿と
谷川邦廣

隧道を二つ抜け冬近づきぬ
藤田銀子

木枯に幟はためく「にぎわい座」
國司正夫

木の葉髪近頃夫と意見合ふ
くにしちあき

数へ日の神主ベンツ降りて来し
佐貫亜美

羽子板市テレビカメラは美人追ひ
小池博美

行列に鳩の割り込み十二月
吉田林檎

眼鏡外して秋の声聴き止めむ
山﨑茉莉花

落葉寄せ付けず社の新しき
高橋桃衣

筆談の最後は破線冴返る
米澤響子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

医者で待ち薬局で待ち年の暮
谷川邦廣

「医者」「薬局」という場から年齢が想像できる。あるがままを淡々と詠んでいるが、年末の人々が殺到する場所で、ここでも待たなければならない、また、待たされるというやりきれなさが言外から察せられる。「待たされ」とか「待たねばならぬ」とか表現すると、愚痴や不満になる。事実だけを述べて思いは汲み取ってもらうという、俳句の骨法にかなった句だ。いうまでもなく季語に多くを語らせている。
企業の四十五歳研修で俳句を始めた作者も、喜寿を越えた。老齢の日々はこんなものだと冷静に描いた点に年季を感じる。

 


落葉掻く丘に図書館能楽堂
國司正夫

丘に図書館が立つ町は全国どこにでもあるが、能楽堂がある町はざらにはない。季語が、歴史ある木立と静けさを語っている。文化的に成熟した街を想像させる。単なる事実を述べただけだが、想像の世界が広がっていく楽しさがある句。
この句はヨコハマ句会の吟行で久しぶりに紅葉坂へ行ったときの所産。横浜に限らず、木立の中に図書館や能楽堂がある丘の上を想像してみよう。

 

 

木の葉髪近頃夫と意見合ふ
くにしちあき

ということは、昔はご主人と意見があまり合わなかったのだ。黙って従う妻ではないことも語っている。若い頃は、意見の違いを堂々と語り合った夫婦に違いない。ところが季語が語るような年齢になると、夫の意見に反発を覚えない自分を見出したのだ。
この句は近頃だけを語っているのではなく、若かった頃の夫婦のありようも語っている点に、工夫も味わいもある。

 

去年今年  西村和子

木登りのはじめ冬木にかぶりつき

少年に腹筋冬木に力瘤

冬晴やサッカー少年いづこにも

働けるかぎり働くちやんちやんこ

客捌きつつ鎌倉の年用意

数へ日のいつもの茶房常の席

年越の塵も埃も我が身より

子ら来るを待てば輝く初御空

 

もう若くない  行方克巳

どの畦に立ちても筑波颪かな

蓮根掘る常陸風土記の国中くんなか

蓮根掘る泥の細波かき立てて

狸とも貉ともなく十二月

冬桜咲きの盛りのさびしらに

ぶくぶくと柚子が湯を噴く冬至かな

如何にせん冬至南瓜の四半分

おでん酒ふたりとももう若くない

 

紅天狗茸  中川純一

紅天狗茸の観察這つて寄り

そつぽ向きをれば目に入り実南天

風呂吹に絵の具のやうな味噌のせて

居眠れる眉美しや暖房車

ときどきは水をたもれとシクラメン

退任の後の柚子湯にふかぶかと

黄落や出会ひがしらの手を振りて

山眠る瓦礫屍の街の果

 

 

◆窓下集- 2月号同人作品 - 中川 純一 選

松手入まづ空鋏唄はせて
池浦翔子

胸元をふつくら合はす菊師かな
影山十二香

変声期終はれば美声小鳥来る
杢本靖子

栗おこは買うて一日を締めくくる
黒須洋野

山茶花散る音なき音を聴きにけり
山田まや

昌平坂行きつ戻りつ秋惜しむ
村松甲代

嘘なんてつけないものね蜜柑むく
山本智恵

スリッパの冷たき東方正教会
米澤響子

石狩川河口十里の芒原
吉田しづ子

豊の秋里山暮し愉快なり
吉澤章子

 

 

◆知音集- 2月号雑詠作品 - 西村和子 選

学府に灯銀杏落葉を照らしつつ
井出野浩貴

塔婆書く僧はTシャツ萩の寺
國司正夫

潮風の匂ふわが町鳥渡る
井戸ちゃわん

言ひかけて言ひやめしことすがれ虫
山田まや

豊の秋動けないから腹減らぬ
中野のはら

石蕗咲くや昔小池のありし庭
中津麻美

秋うららぼうろかるめらかすていら
立川六珈

袖捲り泰山木の花仰ぐ
栗林圭魚

七五三父の最も美形なる
影山十二香

一景に花なき葉月吉野窓
藤田銀子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

山茶花や畳むほかなき家なれど
井出野浩貴

「畳む」という日本語には様々な意味がある。衣服を畳むという他に、まとめて始末するとか、胸に畳むとか、広辞苑を引くと物騒な意味も書かれている。この句の場合はいうまでもなく、「店を畳む」のように閉じて引き払うという意味に使われている。「始末する」などと言ってしまうと身も蓋もないが、「畳む」という言葉が選ばれている点に作者の思いが籠められていよう。
もう誰も住んでいない親の家、これから住む予定もない家だが、人生の大半の思い出がある家。そこを引き払ったり人手に渡したりしなければならない辛い体験は、五十代を過ぎると誰もが思い当たることだろう。「山茶花」という季題に、作者の愛着や淋しさが籠められている。さらに「家なれど」と言いさしている点に、理屈ではわかっているのだが、心情的にはそうしたくはないという心残りも表れている。

 


芸術の爆発したる上野秋
國司正夫

「芸術は爆発だ」という岡本太郎の激しい言葉を、誰もが思い浮かべるだろう。上野といえば美術館や博物館、芸大や音楽会場など、東京の代表的な芸術の町だ。この表現から、かなり前衛的でシュールな絵や彫刻などが見えて来る。芸術家の様々な生き方を、否定したり拒絶したりするのでなく、こういう世界もあるのだと楽しんでいる思いが伝わってくる。

 

 

秋晴や口あけて干す旅鞄
井戸ちゃわん

澄んだ秋空の下、旅の思い出とともに、鞄を干している。これは誰もがすることであるが、「秋晴」という季語が大いに語っている、終えたばかりの旅も好天に恵まれて、秋の景色や味覚を存分に楽しんだであろうし、鞄には土産物も詰め込んだのだろう。それらを空っぽにして鞄を干したとき、旅が終わったと実感したのだ。心身ともにリフレッシュして、今日からは秋天の下で掃除、洗濯に励もう。そんな声も聞こえて来そうだ。

 

憂国忌  西村和子

玲瓏と冬天朗々と鳶

禍事を祓へたまへや銀杏散る

手品師の鳩紛れをる冬日向

綿虫やひとりごころを嗅ぎつけて

綿虫や御納戸色を纏ひたる

憂国忌天の金瘡擦過傷

残照に梢をののく憂国忌

憂国忌罪悪感のいづこより

 

この児抛らば  行方克巳

紅葉且散る石のきだ水の段

虫食ひも病葉も冬紅葉かな

落葉籠てふ一品を展じたる

落葉籠にも夕しぐれ朝しぐれ

寂庵のけふも居留守か雪螢

色変へぬ松にも紅葉敷きつめて

紅葉渓この児抛らば夜叉となる

冬紅葉阿弖流為アテルイの血に母禮モレの血に

 

冬に入る  中川純一

紅天狗茸の観察這つて寄り

霧はれて来し初島の仔細かな

手芸屋に目当の小物文化の日

縋りつく菊師に政子目もくれず

冬に入るクロワッサンがほろと裂け

バスを待つ唇乾き今朝の冬

白鳥を彫り起こしたる朝日かな

大声で呼ばれ振りむき蓮根掘

 

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

思ひ草しやがんで覗きゐたりけり
山田まや

狩人のベルトに一枝白桔梗
山本智恵

面会の十分了へて虫の声
太田薫衣

夫の忌や未だ生かされて秋桜
村地八千穂

西域の星の色なる葡萄かな
井出野浩貴

稲刈の列凸凹となる遅速
松井秋尚

きのこ山茸匂ひて雨激し
島田藤江

初恋の話などして敬老日
橋田周子

花街の湯屋の灯点り夕月夜
芝のぎく

七色のもう暮れ初めし秋の海
大村公美

 

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

嬉しくて羽ばたき止まぬ小鳥かな
高橋桃衣

拾はむとかがみ椎の実こぼしけり
井出野浩貴

母によく似た人ばかり処暑の街
藤田銀子

右琵琶湖左秋草湖西線
島野紀子

十五夜のコインランドリーにひとり
井戸ちやわん

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

母の手のスローモーション曹達水
佐々木弥生

身に入むや血脈の絶え歌残り
牧田ひとみ

宝くじ売り場に上司秋の宵
成田守隆

風にふと押し出されたり秋の蝶
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

秋の空吸ふ前に息吐き出さん
高橋桃衣

高く晴れ上がった秋の空を仰いで、深呼吸しようとしたときの作。爽やかな新しい空気を存分に吸い込もうとするには、その前に肺に残っている空気を吐き出さなければならない。このことは深呼吸だけではなく、自然界や人体をはじめとする大方の物に通じる真理である。
「秋の空」は動かない。試しに他の季節に置き換えてみるといい。春では心地よすぎるし、夏は辛い。冬はどんよりしている。清新なものを取り入れようとするとき、澱んでいた空気は吐き出した方が効果が期待される。

 


彦根から守山からのヨットの帆
島野紀子

地名が効果的に用いられた句。「彦根」と「守山」といえば、琵琶湖の光景であることが一読してわかる。湖にヨットが繰り出してゆく光景を描くのに、湖という言葉を使わない工夫が凝らされている。琵琶湖の地理が頭に入っている人には、彦根から出て来たヨット、守山から進んできたヨットの方角や向きがすぐに想像できるに違いない。
海のセーリングは激しい動きがあるが、湖のそれは堂々として静々としている。そんなことも見えて来る句だ。

 

 

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

一人暮らしの境遇から生まれた句。家族がこの家に帰って来た頃は、その時刻になると玄関から門までの辺りに水を打っていたのだろう。それは、昼間の火照りを冷ます効果はもとより、外で働いて帰ってくる家族を迎えるための、主婦なりの心遣いであった。何十年か経って境遇の変化を経て、家を守っている作者。もうこの家に毎日帰ってくる人は無いのだけれど、長年の習慣を守っている。「水を打つ」という季語は、とかくもてなしの思いで詠まれることが多いが、この句は自宅に水を打つ作品である。おのずから作者の人生をも語ることになった。

 

稲 光  行方克巳

夕月夜桟橋はひと悼むところ

稲光いま無呼吸のわれならずや

稲光つひのひとりと思ひけり

灯火親し見ぬ世の友も見しひとも

世渡りの栗羊羹も酒もよし

栗羊羹の歯形いやしき男かな

水深のごときゆふぐれ迢空忌

穴惑ひ山廬の昔語るらく

 

十七年  西村和子

そののちの秋速かりし長かりし

旅さやか世に亡き人を伴ひて

それよりのはぐれ心の秋深し

見晴らしの堂塔山河秋日和

叡山の額蒼白秋気澄む

山頂を浄めたりけり秋の風

山河秋心あらたに生きよとて

秋の声すなはち死者の声届く

 

海 光  中川純一

秋麗ら振らねば止まる腕時計

桂馬飛びして墓原の青飛蝗

石狩の朝日燦々鮭を待つ

惜しみなく板屋楓の紅葉晴

海光は鳶の描線秋麗ら

北大の秋日きはまるポプラかな

をみなたる気概ありけり皮ジャケツ

綿虫の描き散らしたる光かな

 

 

◆窓下集- 12月号同人作品 - 中川 純一 選

嬰に耳触られてゐて夜長し
亀山みか月

もう夫は寝付いて居りぬ虫の闇
金子笑子

蟷螂の目力にもう負けてゐる
下島瑠璃

辞書重し一字を探す秋灯下
山田まや

ほんのりと海の匂へり心太
𠮷田泰子

口開けてフェリーが待つよ夏休み
石原佳津子

毘沙門の虎を包みし法師蟬
村松甲代

アレと言ひアレねと返す盆用意
森山栄子

鄙ぶりの特大おはぎ施餓鬼棚
吉田しづ子

夕まけて一番手なるちちろ虫
鴨下千尋

 

 

◆知音集- 12月号雑詠作品 - 西村和子 選

溽暑きはまりぬ為政者狙撃され
藤田銀子

蚯蚓鳴く俳句すいすいできる夜は
松枝真理子

屋上へたれも誘はず鰯雲
井出野浩貴

青田風農家継ぎたる眉太き
田代重光

台風やテールランプに目を凝らし
前山真理

小鳥来る人は弁当食べに来る
吉田林檎

ボール探す秋草踏んで踏んで踏んで
高橋桃衣

曼珠沙華すつくすつくと着地せり
米澤響子

榛名富士凛と映して水の秋
鴨下千尋

少年の頃の昂り台風来
松井秋尚

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

つはものの落涙か滴れるとは
藤田銀子

滴りという自然現象を涙と見立てる俳句は珍しくはない。しかしこの句の涙は「つはものの落涙」である。NHKの今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」を見るにつけても、貴族の世から武士の世の中への日本史の移行に際して、数々の残酷な戦いがあったことを私達は改めて知ることになった。
この句の作者は鎌倉在住なので、至る所に血なまぐさい遺構があることを知っている。崖や切通しの滴りを目にして、これは鎌倉時代の武士たちの無念の落涙ではないだろうか、と見えてくるのだろう。同じ涙でも、悲しみや淋しさゆえのものではなく、つわものの涙は無念や恨みの象徴である。「落涙」という言葉のニュアンスも汲み取りたい。

 


寅さんのポスター褪せてかき氷
田代重光

いうまでもなくフーテンの寅さんのポスターである。今でもテレビで放映されると必ず見てしまう、昭和の名作だ。そして同じところで声を出して笑ってしまう。どの地方の背景も昭和の時代をそのまま映していて、私達の世代には懐かしい限りだ。
そのポスターが褪せてしまっているという点に、昭和が遠くなったことを実感する。作者はかき氷を食べているのだ。その場所は柴又商店街かもしれない。映画の終わりは、冬なら江戸川の土手の凧揚げ、夏はとらやのおばちゃんが作るかき氷、そんなパターン化した画面も今となっては懐かしい。この季語は動かないのである。

 

夕まけて夢二の庭の秋の声
鴨下千尋

毎年伊香保で行われる夢二忌俳句大会も、疫病の影響で今年は三年ぶりの開催となった。その折の句。「夢二の庭」は榛名湖畔に夢二の最晩年に建てられたアトリエのことだろう。地元の有志によって保存されているそのアトリエは、毎年吟行コースに組み入れられている。庭といっても秋草が伸び放題になっていて、露草の色が印象的な空間である。ここで過ごしたいという夢二の夢は叶わなかったが、目の前の湖が暮れて来ると、現実には聞こえて来ないはずの声や音が、詩人の耳には届くのだ。