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筋肉の色でありけり曼珠沙華  矢羽野沙衣

群れ咲いている曼珠沙華ではなく、その一茎に開いたばかりの花を凝視した作者の目がある。その華を見つめた作者はいわゆる曼珠沙華という総体的な印象とは違うインプレッションを受けたのである。「筋肉の色」とは今まで私が経験したことのない曼珠沙華の細見であった。沙衣さんのきわめて独自性のある感覚表現をうべなうばかりである。
「知音 平成29年12月号 紅茶の後で」より

まつ白なシーツの好きな赤とんぼ  千葉美森

すっかり乾いた真白なシーツ。見ると赤とんぼが止まっている。シーツを取り込もうとするとツイと飛び立つが、またすぐに戻ってきてまた同じシーツに止まるのだ。
「知音 平成29年12月号 紅茶の後で」より

家を去る日の朝顔の藍深く  小山良枝

作者は夫君の海外転勤に従って日本を後にしたと聞く。だから、「家を去る」ということは、ただの引越しではないわけで、濃い藍色に咲いているこの朝顔は、まさに惜別の象徴というべき花なのである。
「知音 平成29年11月号 紅茶の後で」より

霧晴るる刹那をしかと等伯図  立花 湖舟

まさに霧が引いてゆこうとする瞬間を把えた等伯の絵である。言語で絵の趣を表現することは大変難しいことであるが、この一句、しっかりと等伯の画趣を把握しているように思う。等伯の作品を前にした作者の真剣な視線が感じられる。
「知音 平成30年12月号 紅茶の後で」より

人襲ふ真似して虎の残暑かな  下島 瑠璃

動物園に飼育されている虎のほとんどは、只ぐでんとしていて、草原で狩をしている精悍さは全く見られない。しかし、時としてかつてのDNAが突如甦ったように荒々しい姿を見せることがあるものだ。恐らくこの虎は急に檻の外の見物人に襲い掛かるようにしてびっくりさせたのであろう。
「知音 平成30年11月号 紅茶の後で」より

師の墓のすべなく灼けてゐたりけり  清崎敏郎

「折口信夫墓」と前書がある。石川県羽咋市一ノ宮町に、折口父子の墓がある。
「もつとも苦しき たたかひに 最くるしみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋ならびにその父 信夫の墓」。折口信夫が養子春洋の死を嘆き、自ら墓碑を選んで、昭和24年に建てた。4年後、自らもそこに埋葬された。
夜長会の旅行で、先生と共に墓参した。かつてはその墓石の半分近く白砂に埋もれていたと聞くが、昭和58年の夏には、台座まで顕わとなっていた。「すべなく」には、そのありように対する思いもこめられていよう。

「清崎敏郎の百句 西村和子著」より

猛暑なり生きてゐるさへ摩訶不思議  吉田 あや子

今年の暑さは記録にない激しさだ、など最近毎年のように言われているような気がする。作者にとってもそれは同様であったのだろう。よくこんな暑さに耐えられるものだ、と自分でも信じられない程なのだ。下五の「摩訶不思議」には作者のゆとりさえ感じられる。
「知音 平成30年11月号 紅茶の後で」より

白亜紀からジュラ紀へ冷房を抜けて  志磨 泉

地質年代で中生代はジュラ紀から白亜紀に続く。今から1億年以上昔のことである。この句は博物館での一句だろう。白亜紀のものを展示した部屋から、ジュラ紀の部屋に冷房の効いた空間を通り抜けて行った、ということ。何千万年をあっと言う間に通り抜ける、というおもしろさ。
「知音 平成30年11月号 紅茶の後で」より