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窓下集 - 1月号同人作品 - 西村和子 選

わが胸の奔馬嘶き鰯雲      井出野浩貴
林檎選る星を持ちたるその一つ  中川 純一
書き割りの丘一面の女郎花    久保隆一郎
白樺の梢伝ひに秋の声      石山紀代子
草の花その名問ひたき人をらず  植田とよき
丸坊主耳の中まで日焼して    菊池 美星
よぐござつたなつすと林檎剥きくれし 中野のはら
容易には靡かぬ花よ女郎花    石原佳津子
山脈は北へ走れり野分晴     江口 井子
天主堂守る四軒甘藷畑      高橋 桃衣

知音集 - 1月号雑詠作品 - 行方克巳

諍ひの声を殺して良夜なる    米澤 響子
赤蜻蛉まだ固まらぬガラスのやう 田中久美子
明珍の秋の風鈴幽けさよ     八木澤 節
古書街の秋縦に積み横に積み   乗松 明美
積読よりカズオ・イシグロ秋灯下 くにしちあき
花野かな紫がちに揺れてゐる   下島 瑠璃
口笛にちよと惹かれゐる小鳥かな 中川 純一
山葡萄摘みてふくみて殿に    中野トシ子
鬼の子に見られて鍵の隠し場所  山田 まや
風まかせ鬼の捨子の 命綱     本宿 伶子

紅茶の後で - 1︎月号知音集選後評 -行方克巳

諍ひの声を殺して良夜なる    米澤 響子

十五夜の夜である。空には一片の雲もなく晴れ渡り、人々はそぞろに今宵の月を賞でてている。作者もその一人であるが、ふとその中の二人の押し殺したような声が耳に入って来た。その二人の会話は、月を賞美するような語調ではなく、内容は勿論聞きとれはしないのだが、明らかに何事か言い争っているのである。ただ、静かに月を眺めている人々の 防げになるような、そんな不粋な二人ではない。しかし、声を押し殺したような物言いは作者の耳には却って気に掛かって聞こえてくるのである。

赤蜻蛉まだ固まらぬガラスのやう 田中久美子

赤蜻蛉の透きとおるような赤さとその羽根のさまを炎から外してまだ固っていないガラスのようだと感じた。中七下五の比喩が、そのまま描写性を持っている句である。

明珍の秋の風鈴幽けさよ     八木澤 節

広瀬惟然の旧宅の軒端に吊り下げてあった明珍の箸を束ねた風鈴を詠んだ句である。全く描写性を持たない句であるが、あの微妙な明珍の風鈴の雰囲気をよく把えた句だと思う。同じ時の作に、<明珍の触れざる響秋の風 井内俊二><明珍の秋の風鈴かすかにも 野垣三千代>がある。

前山真理句集『ヘアピンカーブ』
2017/12/30刊行

◆第一句集
雪竿ののぞくヘアピンカーブかな

「だいじょうぶか?」
「しっかりね!」
とヘアピンカーブからのぞいている雪竿は
真理さんに最も近しい応援団のご両親の声かも知れない
もちろん私もその一人――。
向後も真理さんらしい写生の味をいっそう深めていって欲しいと思う。
(帯より・行方克巳)

◆行方克巳抄出十句
さよならと言はずまたねと卒業子
春の鴨水面の綺羅を引つぱれる
旋盤の音のひきつる秋暑かな
見守るといふは難し葱刻む
梅雨の蝶草の匂ひを嗅ぎ分けて
雪しまきドイツトウヒの森を消し
父の忌の空を仰げば初燕
どこからも狙はれさうな巣箱かな
朝桜父の忌の母おしやれして
夢を見て糞して河馬の日永かな

窓下集 - 12月号同人作品 - 西村和子 選

カンナ赤有刺鉄線押し退けて    岡本 尚子
冷まじや怒髪天つく木つ端仏    江口 井子
秋雲や城下をゆけば子規の声    井出野浩貴
台風過羽田沖まで砂の色      大橋有美子
鍵盤の象牙黄ばみぬ秋灯      影山十二香
人のこととやかく言へぬ秋 暑し   天野きらら
水音にうち重なりて秋の蝉     石山紀代子
凾谷鉾風の大路を見下ろして    小池 博美
在釜告ぐ門の貼紙秋日和      山田 まや
桟橋を跣足やスニーカーを手に   植田とよき

知音集 - 12月号雑詠作品 - 行方克巳 選

手は足を足は手を追ひ阿波踊   井内 俊二
蜻蛉の群れてもはぐれても独り  久保隆一郎
夜の目の光れば鹿の獣めく    片桐 啓之
雲の峰健脚コース選びけり    石川 花野
鉋屑ふんはり匂ふ白露かな    影山十二香
火祭の火に煽らるる小競り合ひ  青木 桐花
バギーの子ゑのころ草に手の届き 山本 智恵
蟻の道でで虫の道我の道     前田 沙羅
アロハ着てサンダル履いて美術館 中野のはら
新宿もいつかは廃墟赤とんぼ   井出野浩貴

紅茶の後で - 12月号知音集選後評 -行方克巳

手は足を足は手を追ひ阿波踊   井内 俊二

阿波踊りの句と言えば、岸風三楼さんの、<手をあげて足を運べば阿波踊>という句が知られているが、俊二さんのこの句はちょっと異なった把え方をしているようだ。手をあげて足を運ぶという表現はなるほど合点する。その手足の動きの連続したムーブメントを分析してみると、確かに「手は足を足は手を追」うということになるように思われるのである。風三楼の句を十分承知した上での作であろう。

蜻蛉の群れてもはぐれても独り  久保隆一郎

蜻蛉のよみは普通「とんぼ」であるが、なまって「とんぼう」になったとされる。風生歳時記では、現代語の仮名表現としては「とんぼう」であり、古典的な表記では「とんばう」とする。
角川の俳句大歳時記では、考証の中には「とんばう」が多出するが、蜻蛉の傍題としては「とんぼう」をとっている。
私は「とんばう」という表記はどうも好きになれない。普通は「とんぼ」というのだから、「とんぼう」でいいと思う。
あめんぼうなども同様である。
掲句は、蜻蛉の群れ飛ぶときでも、あるいは一匹だけ群を群れている時でもどれも一人ぼっちであるという。作者の中のどうにもやる方ない寂寥感を蜻蛉のうえに見ているのである。

夜の目の光れば鹿の獣めく    片桐 啓之

昼日中の鹿の大きく澄んだ目はまことに愛らしく、野生の動物であるには違いないが、とても親近感を覚える存在だ。しかし、夜闇の中で目だけが光っている様子は、やはり獣に違いないと感じる。昼と夜では鹿はまるで異った動物のように思われるのである。

窓下集 - 10月号同人作品 - 西村和子 選

江ノ電の警笛路地を抜けて夏   久保隆一郎
あめつちに水のあまねき青葉かな  井出野浩貴
堰越えて息吹き返し夏の川   植田とよき
ロープウェイ一気雪峰迫りきし  江口 井子
半夏生予報を違へかつと晴れ  栃尾 智子
火取虫過り炎の欠けにけり  竹本  是
危絵の隅に三毛猫蚊遣香   小池 博美
心太子育てなんぞあほらしき  岡本 尚子
鉾宿の昼の灯しを惜しまざる  中田 無麓
私わたしとサングラス外し見せ  津田ひびき

知音集 - 10月号雑詠作品 - 行方克巳 選

肖像の眼差し固く夏館  中川 純一
扇忙しく鼻先へ首筋へ  井戸ちゃわん
俺様の岩よと鱏のかぶさり来 植田とよき
宿直の看護士若き菜種梅雨  平野  哲斎
白絵具落とせし如く海月かな 吉田 林檎
はんざきは何時もどこかを縮めてる  片桐 啓之
明け易し妻の実家の妻の部屋  小野桂之介
女湯を恥づかしがりて子の五月  菊池 美里
新緑の奥も新緑その奥も  井内 俊二
実梅捥ぐよしよしと声掛けながら  米澤 響子

茶の後で - 10月号知音集選後評 -行方克巳

肖像の眼差し固く夏館  中川 純一

この句のポイントは、上五中七を夏館という季語がしっかりと受けているかということにかかっている。館の壁には同じ肖像画がいつでも掛かっているわけだから、はたして、夏館という季が活かされているか、が問題になるわけである。
もしこの句が冬館だったらどういうことになるかを考えてみると問題の所存は、はっきりするだろう。勿論、「眼差し固く」がつき過ぎになってしまうのである。「春館」とか「秋館」という季語は存在しない。従って夏館という設定に対しては「眼差し固く」が最適の表現という結論になるのである。

扇忙しく鼻先へ首筋へ  井戸ちゃわん

あまり上品な扇使いではない人物が彷彿する。せかせかと扇で風を起こしているのだが、じっとりと汗ばんだ鼻先とか首のあたりに触れんばかりにばたばたと煽いでいる様子は見ているだけで暑苦しく感じさせる。そういった人物が巧みに描写された句である。

俺様の岩よと鱏のかぶさり来 植田とよき

大きな鱏が悠然と泳いでいる様子は何だか海のならず者のようでもある。これは勿論水族館の所見であろうが、多くの魚達が目にも入らぬといった鱏の傍若無人の泳ぎっぷりである。岩のあたりに鰭を動かしている魚達にどけどけとばかりに鱏がそのステルス戦闘機の翼のような魚体でもってかむさってくるのだ。

窓下集 - 9月号同人作品 - 西村和子 選

薫風や蘭陵王面脱ぎたまへ    吉田あや子
山城へ裏道とりて朴の花     前田 星子
寝転んで読む癖いまも桜桃忌   米澤 響子
黒揚羽前世王妃か傾城か     井出野浩貴
夏兆すオープンカーに犬乗せて  栃尾 智子
木雫を落とす技あり梅雨鴉    井内 俊二
船揺るるソフトクリームとろけさう 井戸ちゃわん
鉄橋の音は郷愁草茂る      磯貝由佳子
足るを知るまでに至らず新茶汲む 津田ひびき
万緑や大阪城は色褪せず     寺島 英子

知音集 - 9月号雑詠作品 - 行方克巳 選

ほんのりとしやぼんの香り濃紫陽花 山本 智恵
尼寺の小さき礎石や秋の声     栗林 圭魚
ブリューゲル展出でてうつつの梅雨の町 江口 井子
赤潮や龍宮の色溶け出して     鈴木 庸子
声にして師の句碑なぞる日の盛   島田 藤江
蛇衣を脱ぐ悪妻のよく眠る     津田ひびき
水上バイクしぶきの翼広げゆく   大塚 次郎
四十年暮らして迷子路地若葉    久保隆一郎
片脚のぶらんと垂れてハンモック  中川 純一
噴水の音を束ねて止まりけり    松井 秋尚

紅茶の後で - 9月号知音集選後評 -行方克巳

ほんのりとしやぼんの香り濃紫陽花 山本 智恵

この句の上五中七は勿論下五に掛かっている。そうすると、紫陽花の花に、しゃぼんの匂いがした、ということになる。そんなことがあるかしら、と疑うこともできるだろう。しかし、私は作者には確かにしゃぼんの匂いがしたのだろう、と考える。これは物理的事実云々ということではない。作者がどのような個人的体験をしたのか、ということなのである。かすかな石鹸の匂いを嗅ぎとった、というのは文芸上の事実に属することであり、それが一句を成立せしめる条件として受け入れることができれば、それで十分であろう。私にはかなりオリジナルなこの感受的表現が理解できるように思う。

尼寺の小さき礎石や秋の声     栗林 圭魚

静かな秋の夕暮れである。作者はとある尼寺の遺跡に佇んでいる。小規模の寺であったと見えて、その礎石も小ぢんまりとしている。いかにも静かなあたりの雰囲気に、この寺の往時の静寂なたたずまいなども思われてくるのである。

ブリューゲル展出でてうつつの梅雨の町 江口 井子

ブリューゲルはフランドル派の画家。その晩年は好んで農民の生活を描き続けた。彼のある時期の最高傑作とされる「バベルの塔」が今、上野に来ており、作者はその展覧会に足を運んだのであろう。この句はその展覧会のメインたるべき「バベルの塔」の残像が一句をなさしめたことが分る。結局は完成することなく終ったバベルの塔-。あまりに複雑な構造物とその大事業に取り組む職人達が詳細に描かれた一枚の絵はしばらくは作者の脳裡から離れようとはしない。梅雨に煙った現実の町並は次々に擦過してゆくばかりである。

志磨泉句集『アンダンテ』
2017/8/26刊行

◆第一句集
上手く笑へず上手く怒れず初鏡

泉さんの自画像である
それは、人間関係における
自己表現のむずかしさ――
しかし彼女のうちに備わった
音楽性は その俳句作品に
独自のリズム感をもたらしている
(帯より・行方克巳)

◆自選十句
視程五マイル初凪の地中海
上手く笑へず上手く怒れず初鏡
実朝忌ことばの力疑はず
一頁手前に栞春灯
吾子に買ふ片道切符風光る
南風を味方につけて棒倒し
帰省子のまづ弟のことを問ふ
同じことまた問ひかけて墓洗ふ
妬心とはかういふかたち曼珠沙華
あれが君さう決めて見る寒オリオン

小野桂之介句集『蝸牛』
2017/8/8刊行

学者であり教育者である顔とはちがう、表現者の表情。
夫であり父であり祖父である温和なまなざしとは別の、キラリと光る鋭い視点。
何事もてきぱきとおこたりなく進める有能な行動に、時折覗く諷刺と茶目っ気。
作者を知る人も知らぬ人も、読めば読むほど味わいの増す句集。
(帯より・西村和子)

◆西村和子選十句
ハンカチで煽ぐのんどの白さかな
一掻をがしやりと注ぎぬ蜆汁
鮎宿の壁行灯の女文字
長き夜やこのごろ妻の鼻眼鏡
席蹴つて赤き手袋わしづかみ
居眠るがごとし学者の初仕事
登校子悴む指を食らひけり
振り向いて小さく手を振り春の風
ダメといふことばかりして七五三
幕上がり奈良岡朋子毛糸編む

窓下集 - 7月号同人作品 - 西村和子 選

とこしへに母は黒髮天の川  吉田 林檎
船室の天井眩し春の波    井戸ちゃわん
耳になほ都をどりのヨーイヤサ 米澤 響子
枝々の影はぐらかす春の水  松井 秋尚
真剣はときに滑稽猫の恋   山田 まや
ステップを踏みつ象の子春を待つ  若原 圭子
抗ひし日々を置き去り卒業す 藤田 銀子
その翳のなかをしだるるさくらかな 井出野浩貴
翠黛のはなやぎ増せり花の雨 中田 無麓
海沿ひの町へ出張夏近し   月野木若葉

知音集 - 7月号雑詠作品 - 行方克巳 選

フラミンゴ春のレビューの楽屋裏  大橋有美子
銀しやりに目刺突き刺し喰ひしころ 竹本  是
むささびの黒瞳の覗く巣箱かな   岩田 道子
たかんなの息に湿れる新聞紙    栃尾 智子
顔あげて桜吹雪の中にゐる     井戸ちゃわん
鳥帰る吾にも翼ありし頃      大野まりな
春愁の流し目寅さんブロマイド   植田とよき
針供養働く人の指太き       難波 一球
大原の茶屋のもてなし春炬燵    前田 星子
金庫室内窓開いて春の雨      板垣もと子

紅茶の後で - 7月号知音集選後評 -行方克巳

フラミンゴ春のレビューの楽屋裏  大橋有美子

普通我々が見るフラミンゴは虹色の羽を持ち多数が群れて行動する。動物園の檻の中で沢山のフラミンゴが細長い脚をふわりふわりと動かして独特の動きを見せている。その賑やかなありさまを、作者は春のレビューの楽屋裏みたいだと表現したのである。楽屋裏とは楽屋の内部ということで、舞台が開く前に踊子達が思い思いのステップを踏んだりして、準備をしている、そんな情景をフラミンゴ達の動き方に見て取ったのであろう。「春のレビュー」で明るい彩りのフラミンゴの集まりらしさを思わせる。楽しい比喩の句である。

銀しやりに目刺突き刺し喰ひしころ 竹本  是

中七の「目指突き刺し」が何のことか分からないかも知れないが、これは戦後の食料事情が悪かった頃を考えれば理解が行く。すなわち、兄弟が多いと副食物でもおやつでも取り合いになっただろうから、大皿の上の目刺も自分の分はさっさと取り分けてしまうのである。そしてそれを、これもまた貴重であった白いご飯に突き刺しておくというのである。何人もの男兄弟の食事風景である。

むささびの黒瞳の覗く巣箱かな   岩田 道子

むささびはリス科。前肢と後肢の間に膜があって木から木へと飛び移る。眼が大きく愛らしいのだが、この巣箱から覗いている黒瞳はどうやら子供のむささびらしい。

高橋桃衣集 
自註現代俳句シリーズ 12期21
2017/6/20刊行

ラムネ飲む釣銭少し濡れてをり
ファインダーに入り切れない花野かな
水底の空を駆け抜け寒鴉
ハンカチーフきつぱりと言はねばならず
いつまでもルオーに佇てる冬帽子
きしきしと月光がガラスを磨く
土地を売る机一つや梅雨晴間
シュレッダー紙食べつづけ夜長し
いつ見ても誰が描いてもチューリップ
新酒酌む句友といふはありがたく

窓下集 - 6月号同人作品 - 西村和子 選

流氷に彳つはラスコリニコフかな  米澤 響子
春時雨墓前にふつと止みにけり   小林 月子
寝てさめて雪とけて雁帰りゆく   中川 純一
小流の音の育てし春子かな     竹本  是
雨の夜の更けて雛の息づかひ    井出野浩貴
草青む東寮南寮巽寮        江口 井子
春昼のうろうろ探す眼鏡かな    久保隆一郎
花ミモザ思ひ何ゆゑ空回り     大橋有美子
初午の巫女の細眉細面       中田 無麓
髪洗ふ今日と変はらぬ明日のため  吉田 林檎

知音集 - 6月号雑詠作品 - 行方克巳 選

初大師達磨買ひ筆買ひ忘れ     藤田 銀子
雛の間に通ふ足助の山気かな    中田 無麓
歯をせせりをりてゴリラの春愁   中川 純一
人の世に矢印ばかり鳥帰る     前田 沙羅
杉落葉噛んで薄氷ひろごれる    中野トシ子
恋の句が欲しや眩しき二月来る   馬場 繭子
船頭の演歌訛りてうららかに    原田 章代
初大師賽銭箱の継ぎ足され     前山 真理
海の絵の涼しき風を見てをりぬ   佐貫 亜美
人類史残りいくばく寒夕焼     井手野浩貴

紅茶の後で - 6月号知音集選後評 -行方克巳

初大師達磨買ひ筆買ひ忘れ     藤田 銀子

一月二十一日、新年最初の弘法大師空海の縁日を初大師という。関東近辺では川崎大師が最も知られており、多くの人出がある。福達磨は最も有名な縁起物で大小様々な達磨が境内の出店に所狭しと並べられる。その中に作者の心を引く達磨があったのだろう。しかし、もとより達磨を買おうなどとは思ってもいなかったので、そのことに気をとられ、また境内の混雑に捲き込まれているうちに、うっかりと筆を買ってくることを失念してしまった。弘法大師は三筆の一人で、それにちなんで筆を売っている。筆は文芸を象徴するものだから、その筆を買うことを忘れてしまったと自分を笑っているのである。

雛の間に通ふ足助の山気かな    中田 無麓

足助は愛知県豊田市の地名。古来塩の道の足助宿として栄えてきた。<野良着吊る土間がすなはちひひなの間>からも推察されるように、古い時代の趣が今にも残っている地と思われる。山の冷気が雛の間に座している自分にも感じられるというので、足助という固有名詞と相俟って、他所にはない雛の情緒を醸しだしている。

歯をせせりをりてゴリラの春愁   中川 純一

類人猿ゴリラの行動を見ていると本当に人間そっくりで時には苦笑いしたくなることさえある。歯をせせるという行為もその一つ。彼らは人間が見ていることなど全く気にかけていないから、ありのままの自分を見せてくれるのだ。しかもそのゴリラの雰囲気にはそこはかとなき愁いが感じられるというのである。