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知音 2025年6月号を更新しました


内 外  西村和子

太枝を斬られてもなほ初桜

起き直り蕊むくつけき落椿

遠霞望遠鏡を過去へ向け

花の雨寝覚めの床に囁くは

水門の内外平ら春の暮

船溜り名残の落花たゆたへり

少年の臑のすこやか松の蕊

かげろふや忌日過ぎたる虚子の墓

 

山椒魚  行方克巳

春や春葛根湯のあれば足り

見てよ見て野苺よこのちつこいの

によきによきと建つものは建ち椎若葉

食はずぎらひとは味噌餡の柏餅

はんざきの目のつぶつぶと二つある

コンマ一秒にて山椒魚の餌食

山椒魚盧生の夢の覚めたれば

何もせぬことにも疲れ新茶くむ

 

花 莚  中川純一

花筵抱へ先頭先頭お父さん

ばんざいは抱つ子の合図花筵

すれすれの燕に池の照り返し

春宵の鎖骨をなぞるレースかな

気まぐれに気まままに咲いて姫女苑

水揺れて赤ちやん目高身構へる

話したき一人隔たり春渚

春宵の言葉どほりにとれば罠

 

◆窓下集- 6月号同人作品 - 中川 純一 選

ものの芽のこゑを聴かむと跼みけり
青木桐花

縮緬のお座布ふつくら春火鉢
小野雅子

眉山をなだらかに描き春灯
三石知左子

下萌や鳥の刺繍のベビー靴
牧田ひとみ

踊り場に一燭ゆるゝ雛の家
米澤響子

春一番シャガールの馬空を飛ぶ
くにしちあき

泥団子並べてありぬ蝶の昼
松枝真理子

今日よりも明日良からむ蝶生る
小倉京佳

ふる里も東風吹く頃や隅田川
芝のぎく

沈丁の香よころころと笑ふ娘よ
菊田和音

 

 

◆知音集- 6月号雑詠作品 - 西村和子 選

春の水鳴り出づ一歩近付けば
小山良枝

春燈や卓の辺に伏す盲導犬
井出野浩貴

寄り付に円座を並べ日脚伸ぶ
山田まや

どこまでもボール転がる草青む
井戸ちゃわん

春の風邪うがひぐすりのすみれ色
牧田ひとみ

本棚の埃見ぬふり春の風邪
影山十二香

撫で牛を帰りにも撫であたたかし
廣岡あかね

宵にまた歩かむ神楽坂の春
志磨 泉

雪掻の力任せは捗ゆかず
石原佳津子

バナナ喰ひつつぼろ市の客あしらひ
磯貝由佳子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

胸騒ぎ覚ゆ無数の落椿
小山良枝

椿の花は、首からぼたっと落ちるので不吉だと思われてきたが、花びらが散らずに完全な花の姿のまま落ちるのは、その構造に由来する。落椿を拾って子細に見ると、五弁の花びらと芯が、まるで造化の神が糊付けしたようにきっちりとつながっている。
真っ赤な椿が、咲いていた時の形のままたくさん落ちているのを目にして、「胸騒ぎ覚ゆ」と感じたのは、共感を呼ぶ。主観的写生と言えようか。その底には、客観写生の目が働いていることは言うまでもない。

  

水の辺になにしか来けむ春の暮
井出野浩貴

「なにしか」は、どうしてかという意味だが、「し」は強めの助詞でことさら意味がない。水辺に来た時、なんでこんなところに来たのだろうと思った。誰にも経験のあることだが、「春の暮」のアンニュイや、妖しい心持と響き合っている。
人間の行動は、全てが自分の意志に従っているわけではない。仕事や用事に追われている時は気づかなかった、我ながら不思議な行動。それは、気分の浮き立つ春の季節感の一つと言えようか。

 

うららかや子らよぢ上りふら下がり
井戸ちゃわん

音読してみると、ラ行の音の連続が軽やかで効果的である。情景はそこらの公園で遊ぶ子供たちの様子で、目新しいものではない。しかし俳句は、奇異なことがらを詠むことに意味があるのではなく、誰もが見慣れているはずの光景を、季節感と詩心をもって描写することに意味があるのだ。