池の面へ朱を点々と花ざくろ
青木桐花
「知音」2024年10月号 窓下集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2024年10月号 窓下集 より
「知音」2024年10月号 窓下集 より
「知音」2024年10月号 窓下集 より
「知音」2024年10月号 窓下集 より
「知音」2024年10月号 窓下集 より
「知音」2024年10月号 窓下集 より
初夏の渚へかかとふくらはぎ
福原康之
「初夏」という若々しい季語、「へ」という方向を示す助詞、「かかと」「ふくらはぎ」とひらがなで足の部位を言うだけで、渚へ子供が裸足で駆け出していく様子が見えてくる。
もう赤ん坊ではない子供の成長した足とその走りように、子供たちの夏がやってきた嬉しさも伝わってくる、省略の効いた句。(高橋桃衣)
藤棚の下白髪の映えにけり
五十嵐夏美
優雅な藤に佇めば、誰しもより綺麗に見えることだろうが、作者には白髪が際立っているように思えたという。
先日、藤の前で写真を撮ることに熱中しているコスプレーヤーを見かけたが、この白髪の女性の心ゆくまで藤を観賞している上品な物腰には敵わないだろう。(高橋桃衣)
対岸も菜の花ぽつんぽつんと人
小野雅子
「対岸も」とあるから、菜の花に両岸を縁取られている川なのだろう。そのところどころに人が見えるくらいで、他は大きな空があるばかり。そんな絵のような景色が思い浮かぶ句だ。(高橋桃衣)
帰るさの手に早蕨のくつたりと
森山栄子
「早蕨」は萌え出たばかりの蕨のこと。野山に採りに出かけるのは「蕨狩」と言い、山菜採りの象徴的な季語で、春の来た喜びを感じさせる。
作者は蕨を採りに出かけたが、袋か籠などではなく手で持っていたのだから、1日をかけてというほどではなかったのだろう。それでも、採った蕨が帰る頃にはもう張りがなくなってきている。結構長いこと蕨を採っていたんだなあ、と改めて感じたに違いない。(高橋桃衣)
白つつじ泡のごとくにあふれをり
箱守田鶴
つつじは枝先に花をつけるので、一株全てが花に包まれて見える。それはいかにも「あふれ」るようだ。派手なピンクや赤のつつじが多い中で、白いつつじはかえって目立つ。それが泡のように溢れて見えるというのは、実感だろう。(高橋桃衣)
たんぽぽや老いて垂れ目の豆柴犬
五十嵐夏美
犬も歳を取ると顔が弛んでくる。飼っていて毎日見ているとわかならいのだが、若い頃の写真と比べると如実だ。
それなのでこの犬は、作者が飼っている犬ではないように私には思えた。
たんぽぽが咲いている道端で、足取りが少々頼りなくなっているが、まだ可愛らしさは残っている垂れ目の豆柴に合ったのではないだろうか。
「たんぽぽ」の明るさからも、その犬の可愛がられて飼われてきた今までが感じられる。(高橋桃衣)
をさなごにポニーに山羊に風薫る
松井伸子
なんとか牧場といったところだろう。馬も小さい。山羊も元々大きくない。そしてそこに来ているのは、親に連れられた小さな子供たち。輝くような小さな命に、若葉のかおりをのせて心地よい風が吹いている。作者の心も、景色と一体となっているようだ。(高橋桃衣)
花水木一斉に飛び立たんとす
板垣もと子
「花水木」は北アメリカ原産だが、日本でも街路樹として盛んに植えられてきて、もうすっかりお馴染みになった種である。4枚の大きな花びら(正確には苞)がひらひら風に揺れるので、このように作者には見えたということを、ストレートに言ったところが成功した。(高橋桃衣)
SLの煙地を這ふ花の雨
千明朋代
花見に合わせてS Lを走らせるところがあるようだ。乗って花見をする人、桜を通り過ぎる蒸気機関車を撮影する人、それぞれに楽しめる企画である。しかしこの日は雨。でもそれも「花の雨」の風情だ。
蒸気が「地を這ふ」が具体的で、情景が浮かぶ。佳い写真が撮れた人もいるだろう。俳句もできた。(高橋桃衣)
雪解川滔滔吊り橋ゆらゆら
中山亮成
五八四となっているが、中七の区跨りで、吊り橋を渡り出したらゆらゆらし始めたということが感じられて、効果的だ。力強い雪解川に対して、なんとも頼りない吊り橋である。その対比が面白い。(高橋桃衣)
銀蘭の楚々と咲きたるなぞえかな
飯田静
行く春やスマートボール弾く音
宮内百花
藤の花散りて水輪のまた一つ
松井洋子
小島へと牛車瀬をゆく日永かな
若狭いま子
鶯やけふ穏やかな三河湾
千明朋代
掌をくすぐつてゆく寄居虫かな
森山栄子
白つつじ門より長き石畳
片山佐和子
山桜朝日に靄の立ち上がり
鈴木ひろか
浦風の抜ける径あり干若布
辻敦丸
引越しやチューリップともさやうなら
(引越しやチューリップへもさやうなら)
若狭いま子
石垣の高きに梅花卯木垂れ
水田和代
ほころびは激務の証し衣更
辻本喜代志
若葉風アンデルセンの銅像に
松井伸子
雨傘をさして御衣黄桜訪ふ
三好康夫
背守りの麻の葉紋や初節句
森山栄子
つつかれて目を覚ましたる花疲れ
福原康之
祠より湧水絶えず宝鐸草
飯田静
オレンジのキャップ配られ進級す
鎌田由布子
白藤のあるかなきかの風に揺れ
(白藤の有るか無きかの風に揺れ)
木邑杏
カーテンを開けばひなげしの光
松井伸子
夜桜に来て街灯を褒めにけり
片山佐和子
隣より軍歌の聞こえ花筵
松井洋子
葉桜の土手より聞こゆハーモニカ
若狭いま子
洋館の窓いつぱいの若葉かな
五十嵐夏美
昭和の日まだ耳にある軍歌かな
小松有為子
煌めきつつ吹き寄せられし花筏
松井洋子
パソコンの言ふ事きかぬ朧の夜
飯田静
酒瓶で押さへる四隅花むしろ
片山佐和子
早朝の桜の道を独り占め
片山佐和子
スーツの背に皺寄り始め新社員
松井洋子
「知音」2024年10月号 窓下集 より
「知音」2024年10月号 窓下集 より
太枝を斬られてもなほ初桜
起き直り蕊むくつけき落椿
遠霞望遠鏡を過去へ向け
花の雨寝覚めの床に囁くは
水門の内外平ら春の暮
船溜り名残の落花たゆたへり
少年の臑のすこやか松の蕊
かげろふや忌日過ぎたる虚子の墓
春や春葛根湯のあれば足り
見てよ見て野苺よこのちつこいの
によきによきと建つものは建ち椎若葉
食はずぎらひとは味噌餡の柏餅
はんざきの目のつぶつぶと二つある
コンマ一秒にて山椒魚の餌食
山椒魚盧生の夢の覚めたれば
何もせぬことにも疲れ新茶くむ
花筵抱へ先頭先頭お父さん
ばんざいは抱つ子の合図花筵
すれすれの燕に池の照り返し
春宵の鎖骨をなぞるレースかな
気まぐれに気まままに咲いて姫女苑
水揺れて赤ちやん目高身構へる
話したき一人隔たり春渚
春宵の言葉どほりにとれば罠
ものの芽のこゑを聴かむと跼みけり
青木桐花
縮緬のお座布ふつくら春火鉢
小野雅子
眉山をなだらかに描き春灯
三石知左子
下萌や鳥の刺繍のベビー靴
牧田ひとみ
踊り場に一燭ゆるゝ雛の家
米澤響子
春一番シャガールの馬空を飛ぶ
くにしちあき
泥団子並べてありぬ蝶の昼
松枝真理子
今日よりも明日良からむ蝶生る
小倉京佳
ふる里も東風吹く頃や隅田川
芝のぎく
沈丁の香よころころと笑ふ娘よ
菊田和音
春の水鳴り出づ一歩近付けば
小山良枝
春燈や卓の辺に伏す盲導犬
井出野浩貴
寄り付に円座を並べ日脚伸ぶ
山田まや
どこまでもボール転がる草青む
井戸ちゃわん
春の風邪うがひぐすりのすみれ色
牧田ひとみ
本棚の埃見ぬふり春の風邪
影山十二香
撫で牛を帰りにも撫であたたかし
廣岡あかね
宵にまた歩かむ神楽坂の春
志磨 泉
雪掻の力任せは捗ゆかず
石原佳津子
バナナ喰ひつつぼろ市の客あしらひ
磯貝由佳子
椿の花は、首からぼたっと落ちるので不吉だと思われてきたが、花びらが散らずに完全な花の姿のまま落ちるのは、その構造に由来する。落椿を拾って子細に見ると、五弁の花びらと芯が、まるで造化の神が糊付けしたようにきっちりとつながっている。
真っ赤な椿が、咲いていた時の形のままたくさん落ちているのを目にして、「胸騒ぎ覚ゆ」と感じたのは、共感を呼ぶ。主観的写生と言えようか。その底には、客観写生の目が働いていることは言うまでもない。
「なにしか」は、どうしてかという意味だが、「し」は強めの助詞でことさら意味がない。水辺に来た時、なんでこんなところに来たのだろうと思った。誰にも経験のあることだが、「春の暮」のアンニュイや、妖しい心持と響き合っている。
人間の行動は、全てが自分の意志に従っているわけではない。仕事や用事に追われている時は気づかなかった、我ながら不思議な行動。それは、気分の浮き立つ春の季節感の一つと言えようか。
うららかや子らよぢ上りふら下がり
井戸ちゃわん
音読してみると、ラ行の音の連続が軽やかで効果的である。情景はそこらの公園で遊ぶ子供たちの様子で、目新しいものではない。しかし俳句は、奇異なことがらを詠むことに意味があるのではなく、誰もが見慣れているはずの光景を、季節感と詩心をもって描写することに意味があるのだ。