小鳥来とたぶの樹は腕伸ばしたり
西村和子
『句集 窓』 牧羊社 1986年刊 より
客観写生にそれぞれの個性を
『句集 窓』 牧羊社 1986年刊 より
10月22日(土)、台東区民会館9階特別会議室(大)で開催する同人句会(兼題「梨」)の指導は、中川純一先生から行方克巳先生に変更となります。
同人句会幹事
『句集 無言劇』 東京美術 1984年刊 より
「知音」2022年1月号 知音集 より
「知音」2022年1月号 窓下集 より
立てかけしごとをちの滝こちの滝
山清水くねりつつ行く葛の花
爪に火を点す浮世を踊りけり
やさしうてごつうて男踊りかな
きはめつき男踊りの女かな
帰るさの彦左頭巾をはね上げて
暗がりに踊り崩れの二三人
踊り笠たたみて立てば蹴転めく
真葛原一刀両断単線路
突兀と顕れ上州の霧の山
朝霧の香を部屋深く肺深く
霧飛ぶやヒマラヤ杉は翼垂れ
蹂躙を咎めず許さず螢草
おほかたの事は赦され夢二の忌
草々の露踏み分けて画室訪ふ
邯鄲や風のささめきさへ怖れ
八月の芝を突つ切り三塁打
盆花を選りつつ頼りなき視力
蟬しぐれ浴びつつ句碑の女文字
句碑の文字判じて腕の蚊を叩く
おやこんなところに萩とふれてみる
新涼の手ごたへ画布の空色に
嬉しさの不眠もありて明易し
水引草咲いて血圧正常値
探幽の龍と翔びゆく昼寝かな
佐瀬はま代
湯引きして一瞬鱧の花開く
黒木豊子
帯きゅつと締め炎天に立ちむかふ
小野雅子
膝折りてこの鈴蘭を賞でし日も
村地八千穂
狛犬の背ナに傾ぎて濃紫陽花
村松甲代
朝顔の大輪風に浮き上り
山田まや
仲見世の裏手に購ひし団扇かな
黒須洋野
見せる人無き黒髪を洗ひけり
松井洋子
浅草の雑踏にゐて青鬼灯
島田藤江
たまさかは夫婦気の合ひ冷奴
川口呼鐘
鉾建の縄屑もまた匂ひ立ち
米澤響子
化粧室涼しゲランの瓶の青
牧田ひとみ
海芋咲く町のどこにも水の音
吉田泰子
十薬をきれいに残し寺男
大橋有美子
新橋をポンヌフと呼び巴里祭
吉田林檎
夏雲やキッチンカーは翼持ち
志磨 泉
ざら紙のやうな思ひ出梅雨じめり
中野のはら
涼しさや石の館に木の調度
井出野浩貴
一滴のすでに大粒大夕立
磯貝由佳子
遺失届書く首筋に額に汗
井戸ちゃわん
祇園祭の後祭のしんがりである。京都の祇園祭は元来前祭と後祭の二回に分けて巡行が行われていたらしいが、このところ七月十七日に全ての山と鉾が巡行を行っていた。数年前に元の形に戻そうというので、後祭の巡行が復活した。私も久しぶりに後祭の巡行を見に行ったが、最後に登場する大船鉾の堂々たる歩みは感動的だった。
この句は「もう見えず」と言っていながら、祇園祭の全ての巡行の様子が眼裏に蘇ってくる。特に今年は三年ぶりに実施された巡行を、京都の人々はもちろん、全国の人々が心待ちにしていた。無事に巡行が終わったのを目の当たりにして、もう見えなくなった大船鉾の名残を惜しんでいる。
町医者の情景だろう。父親か母親が小児科医院を開業し、その二階に息子か娘が眼科を担当しているのだろう。大病院でないことを語っているのは「花うばら」の季語である。なんでもない郊外の光景だが、一読住宅街の個人医院だなということがわかる。そこが名医だとか、自分の世話になっているというわけではなく、見かけたままを詠んだ俳句。こんなことは俳句でなければ作品にはならないだろう。
疫病の流行で人と会うときはマスクを掛ける習慣が身について三年目となる。本来冬の季語であるマスクが無季のもののように詠まれ始めて久しい。この句は「マスク」という季語は使わず、そんな疫病禍の暮らしぶりと心情を詠んだもの。
対話するとき、目を見て声が聞こえれば不自由はなさそうに思えるが、口元の表情が見えないということは、考えてみれば心許ないものだ。同じ言葉でも、微笑みながら話しているのか、口を皮肉そうに曲げながら話しているのかわからない。その寒々しい心境を託しているのが季語である。
「知音」2022年1月号 窓下集 より
「知音」2022年1月号 窓下集 より
「知音」2022年1月号 窓下集 より
「知音」2022年1月号 知音集 より