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◆特選句 西村 和子 選

いつ来てもひとりの墓所や春落葉
森山栄子
常緑樹は一年中緑の葉をつけているが、春に芽が生まれると、順繰りに落とす。紅葉が散るような華やかさもなく、目立たない。
春落葉が積もったままになっているこの墓所は、かつて功績をあげた人の墓所なのだろう。墓石も立派、周りに植えられた常盤木も年月を経て大きくなった。
栄華や功績を称えられた墓所が、今は訪れる人もなく春落葉に包まれているという静寂な情景を、この句から誰もが想像できる。(高橋桃衣)

 

悠長な島の言葉や春の昼
鎌田由布子
島の住民の喋り方が悠長だと気づいたのは、作者の耳慣れた都会の話し方は忙しないということだ。
「春の昼」は明るく穏やかで、眠気を誘われるほどのんびりとしている。電車や船を乗り継いで訪れた作者には、島の春の昼の時間の進み方が、別世界のように思われたことだろう。(高橋桃衣)

 

繋ぐ手を放しスキップ卒園す
鈴木ひろか
幼稚園か保育園を卒業する子供の、独立心、嬉しさ、そして子供の未来への作者の眼差しを感じさせる、省略の効いた作品。(高橋桃衣)

 

雛あられ桃色だけを選りにけり
深澤範子
白、桃色、緑、黄色とカラフルな雛あられを、幼い子は一粒ずつ摘まんで口に運ぶ。それも、この子は桃色ばかり選って摘まんでいるという。
大人は一度に何粒か摘まむし、桃色がいいなと思っても、それだけを選び続けることはしない。いかにも幼児らしい行動だ。
もちろんこの子は女の子。雛あられの向こうには、お雛様が飾られているだろう。子供の成長を喜んでいる作者の気持も感じられる。(高橋桃衣)

 

春光の湖渡りゆくトウシューズ
木邑杏
「春光」は本来は春の光景、景色ということだが、この句は春の光が満ち満ちている湖ということだろう。そのような湖を渡るかのようにバレリーナがつま先を立てて踊っている、あるいは春光の中の湖を眺めているうちにバレリーナが踊っている姿を想像したのかもしれない。どちらにしても、春の躍動感とトウシューズが響き合っている。また、「トウシューズ」と一点に絞って描いたことで、読者の想像は広がっていく。(高橋桃衣)

 

初燕仰ぐぽかんと口開けて
森山栄子
春になると飛来する燕。去年の巣に来ることも多く、人家や駅などの軒に巣を作るので、人に親しい鳥である。
初燕だ、と目で追いかけるが、燕は縦横無尽に飛ぶので、仰ぐほど見上げてしまう。だから気づくと口が空いているのだ。「ぽかんと口開けて」はリアルだし、おかしみもある。(高橋桃衣)

 

階段を上れば銀座春の雲
石橋一帆
銀座は地下鉄の街だ。地下鉄を降りて、階段を上っていくと、街が広がる。高いビルの上に空。そこには春の雲がふんわりと浮かんでいる。
「春の雲」というだけで、穏やかな光もショーウィンドウの春色も見えてくる。作者の心躍りも感じられる。(高橋桃衣)

 

検査着の丈は短し冴返る
板垣源蔵
「冴返る」は春になってぶり返す寒さをいうが、心の寒さ、不安も感じさせる。
検査着を着るだけでも不安な状況なのに、その検査着の丈は短く、包んでくれるような温かみはない。病院の廊下も待合室も、冬に戻ったように寒々としていて、落ち着かない。そんな作者の気持が伝わってくる。
「冴返る」は春の季語だ。だんだん春らしい日になっていく。検査の結果はわからないが、よい方に向かっていくだろう。(高橋桃衣)

 

楽しさをこらへきれずに囀れり
松井伸子
「こらへきれず」とためらわずに表現したことで、どのように囀っているのかがよく伝わってくる句になった。この表現に辿り着くまでに試行錯誤をした感じがしない。最初から作者にはそう思えたのかもしれない。(高橋桃衣)

 

宮邸の門の閉ざされ花万朶
板垣もと子
「宮邸」だから宮様の邸宅ということだろう。そのような邸宅は敷地も広く、塀や垣の木々も高く、門も普段閉められているから中の様子は窺えないが、門の近くに桜が今を盛りと咲いているのは、道路を行き交う人や車からも見える。
街騒と隣り合った静寂を感じさせる句である。(高橋桃衣)

 

 

◆入選句 西村 和子 選

花冷えや梅ヶ枝餅のほかほかと
宮内百花

我もまた人待つひとり駅の春
(我もまた人待つひとり春の駅)
片山佐和子

失恋をあざ笑ふ如朧月
板垣源蔵

春日差心の中も陽が差して
深澤範子

庭覆ひ歩道へ枝垂れ桜かな
(庭覆ひ歩道へ枝垂る桜かな)
板垣もと子

新社員出社階段駆け上る
(駆け上る階段新社員の出社)
辻本喜代志

小流れの飛び石隠し野芹生ふ
松井洋子

段もなく箪笥の上の立雛
辻本喜代志

満開の花上弦の昼の月
鈴木ひろか

霏々と降りはたと止みたり牡丹雪
若狭いま子

水温む足音に鯉寄り来たる
(水温み足音に鯉寄り来たる)
鎌田由布子

風光る商店街の特売日
板垣源蔵

春潮やタンカー短き水尾を曳き
松井洋子

かたかごや人の気配に花震へ
(かたかごの人の気配に花震へ)
飯田静

ほの暗き路地を明るく桜草
若狭いま子

末黒野の一本道へ出でにけり
水田和代

風光る洗濯物が空を舞ひ
松井伸子

風光るアウトレットに人溢れ
鎌田由布子

うつすらと髭らしきもの卒業子
五十嵐夏美

タクシーを遠回りさせ桜見に
(タクシーを遠回りして桜見ゆ)
穐吉洋子

卒業の朝の鏡へ直立す
(卒業や朝の鏡へ直立す)
平田恵美子

朝には雨に変はりぬ春の雪
鈴木ひろか

てんでんにおいでおいでと雪柳
五十嵐夏美

目の笑ふ馬形埴輪春深し
宮内百花


移植鏝  西村和子

湯けむりの丈を競へり冴返る

噴出の湯けむり盛ん寒戻る

薬草湯浴みし我が身のかぎろへる

あるほどの雛見よとて骨董店

老いたればこそ存分の朝寝かな

服薬を忘れてゐたる四温かな

園丁の膝当て幾重薔薇芽吹く

一握の春の土盛り移植鏝

 

四月馬鹿  行方克巳

その人と思ふ老人彼岸寒

春宵のオスカー光る凶器めく

死に支度晏如よかりし山笑ふ

卒業をしたいさせたいしたくない

ふたりでもひとりでも同じつてこと四月馬鹿

うそのやうなほんとに笑ひ四月馬鹿

沈丁の闇より踵返しけり

日出づる国の黄砂の日もすがら

 

花辛夷  中川純一

藍深き蔵の半纏春灯

時ならぬ雪の梅みてカレー食ふ

呼び合へる鳥を仰げば花辛夷

母子像の背中を撫でて花の風

揚船のワイヤー鳴らし春一番

啓蟄や老にもありし一目惚れ

啓蟄やさつそくに糞転がして

春水を見てをり迷ひなき瞳

 

◆窓下集- 5月号同人作品 - 中川 純一 選

雪解風水の匂ひに包まるる
鴨下千尋

笹鳴や竹の耳掻き良く撓り
相場恵理子

金縷梅の梵字散らしに綻びぬ
山田まや

下萌やふつと尽きたる引込線
井出野浩貴

納札幸も不幸も綯ひ交ぜに
池浦翔子

滑りつつ凍りし道の早歩き
伊藤織女

梅三分絵馬に大きく志望校
小塚美智子

白梅やひたと開かぬ長屋門
帶屋七緒

光にも重さありけり返り花
竹見かぐや

白髪の光愛しみ初鏡
佐瀬はま代

 

 

◆知音集- 5月号雑詠作品 - 西村和子 選

自転車の籠に破魔矢の鈴鳴らし
松井秋尚

頰刺や昭和生まれとひとくくり
井出野浩貴

踏み出せば立春の風頰を刺す
牧田ひとみ

溜息の数だけ老いてはや二月
佐瀬はま代

煤逃も買物連れも喫茶店
高橋桃衣

走り根のくねりて乾き寒の内
大橋有美子

鉄棒も竹馬も駄目本が好き
影山十二香

いつよりか一人が楽し龍の玉
松枝真理子

福笹の鯛のぺこぺこ裏がへる
米澤響子

愛犬もシャンプーカット春を待つ
黒羽根睦美

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

虚子の歳まではと願ふ初詣
松井秋尚

七十代最後の年を迎えた作者の本音。高浜虚子の享年は八十五だったので、その年までは生きたい、しかもその春までは句を残している虚子を見習いたい、と願うのは俳人ならではの思いだろう。
昭和三十四年の四月八日に亡くなった虚子の最後の作は、

独り句の推敲をして遅き日を

だった。鎌倉の婦人子供会館は、最後の句会をしたところであり、そこの看板は虚子の筆である。私達も鎌倉の句会で、そこへ行くたびに虚子を思い、寿福寺のお墓に参る人も少なくない。

  

錦絵のごとく関取鬼やらひ
牧田ひとみ

相撲好きな作者ならではの作。相撲はスポーツというよりは興行であると私は思っている。ただ強ければいい、勝てばいいというわけではなく、美意識や品格を求めたいものだ。最近のお相撲さんで錦絵のような関取というと、遠藤とか大の里辺りだろうか。怪我をしても、包帯やサポーターを巻かないで土俵に上る美意識も貴重だと思う。
この句は、豆撒きに関取を招くような格のある場所なのだろう。立ち居振舞や顔立ちなどが錦絵のようだというのは、最高の誉め言葉だ。

 

 

日当りてほはと烟りぬ枯木立
影山十二香

枯木立を詠んでいるが、春が近い季節であることがわかる。芽吹きが近くなると、梢がほんのり色づき、けぶるようになる。見たままを詠んでいるにすぎないのだが、こうした微妙な季節の移り行きに気づくには、常に俳句を作ろうと自然に向き合っている姿勢が大切だ。