汁粉屋にまはるつもりの針納め
島田藤江
「知音」2020年6月号 窓下集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2020年6月号 窓下集 より
「知音」2020年5月号 知音集 より
初富士の鬣けぶる車窓かな
年酒酌む遺影に語りかけられて
ダリの牛古径の丑と賀状来る
懐剣の丈の見えたり語り初
安普請隠しもあへず花八手
花八手老の待ち伏ここに又
花八手都に鬼門不浄門
遠隔会議中座画面の白障子
疫病のマスクの含み笑ひかな
目配りの効いて女将の白マスク
イマジンとつぶやいてみる冬の星
みちのくの夜話いまに青邨忌
切り貼りの千鳥古りたる障子かな
晩年や柚子湯に遊ぶこともなく
日向ぼこ地獄巡りの途中とも
点鬼簿に誰彼加へ十二月
エスカレーターの先頭七五三
紅葉して実生十糎の楓
蒼き月都庁に上がり三の酉
値崩れの白菜の山輝ける
底冷やむすび一個に人心地
東京に雪虫遣はせしは誰ぞ
年詰まる立食蕎麦に師と並び
隣り合ふベンチに美人日向ぼこ
片割も間遠に応へ残る虫
米澤響子
秋さびし運河倉庫の文字の欠け
吉田しづ子
どれほどのことを丁度と葛湯吹く
高橋桃衣
悪口の上手な男おでん酒
影山十二香
青空へ続く石段七五三
前田沙羅
目覚むれば県境超え秋うらら
吉田林檎
あの日より日記が途絶へ夏の川
原 川雀
立冬の日や寛解の身を預け
黒山茂兵衛
身に沁むや母の最期のありがたう
吉澤章子
原点に戻つてゆきぬ冬木立
山本智恵
小望月帝国ホテルの横に出づ
高橋桃衣
鈴虫や靴の小石を掻き出せば
井内俊二
池の面を桂馬飛びして銀やんま
田代重光
鳳仙花弾き転校して行きし
石原佳津子
また来てと母に言はれて秋の暮
井出野浩貴
天高し川向うから行進曲
井戸ちゃわん
切り返しベンツの曲る萩の路地
中野トシ子
秋扇いきなり箸となりにけり
天野きらら
前山のにはかに退り秋時雨
中田無麓
制服に受賞のリボン冬あたたか
小倉京佳
始めは一本の柿の木を遠くから眺めている。たわわに実っているというのが第一印象。近づいてひとつずつの柿を見るとそこから雨雫が落ちている。広い視野から極小のものへ段々にズームアップしていく視点の動きがある。こうした手法は俳句にしかできないことである。もちろん映像ではできるのだが、写真や絵ではこうした視点の動きは出せない。名句を読んでいると、この手法を巧みに使っている句に出会うことがある。大いに学ぶべきと思う。
この句は雨が上がった直後だということがわかるし、熟した柿からの雨の雫がきらきら光っていることも見えてくる。おのずから場所柄も想像できる。
阿波踊の大きな会場を外れた路地の光景と思われる。明るくライトアップされているのではなく、踊る影が影絵のように光線に浮かび上がっているのだろう。阿波踊は盆踊であるから、死者の魂を迎えたり慰めたりする思いが籠っているものだ。したがってこの「梵字」という例えは、単なる比喩を超えて宗教的な意味合いまで含まれている。それにしても、手を上げ足を上げて踊る阿波踊の人影を梵字と見た比喩は巧みだ。
私も阿波踊の連に加えていただいて踊ったことがあるが、この人影は男踊に違いない。
家を離れていた子供が夏休みに帰ってきた時の言葉だろう。井戸水とか地元の名産ならまだしも、水道の水がおいしいといった子供の言葉に、作者は胸を突かれたに違いない。子供が暮らす大都会の水道の水はそれほど味気ないということだ。薬の匂いまでするのかもしれない。もちろん作者は毎日口にしている水道の水の味が、それほど違うとは初めて知ったのだ。帰省子を読んだ俳句はよく見るが、この句は新鮮味がある。実感の籠った言葉がそのまま作品になったからだ。
「知音」2020年6月号 窓下集 より
「知音」2020年5月号 知音集 より
「知音」2020年6月号 窓下集 より
「知音」2020年6月号 窓下集 より
「知音」2020年6月号 窓下集 より
「知音」2020年6月号 窓下集 より
「知音」2020年5月号 窓下集 より