小春日の港に犬を着飾らせ
牧田ひとみ
「知音」2025年3月号 知音集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2025年3月号 知音集 より
「知音」2025年2月号 知音集 より
遺影より似顔絵親し秋彼岸
若狭いま子
最近はにこやかな表情の遺影が多くなったとはいえ、よそ行きの取り澄ました表情の遺影のほうが主流です。それよりも似顔絵のほうに親しみを感じたということから、生前の故人との関係が伝わります。いまは悲しみより懐かしさのほうがまさっているのでしょう。「秋彼岸」の明るくからっとした空気が似合います。(井出野浩貴)
誰も来ずどこへも行かず秋彼岸
片山佐和子
昔は、墓参りの帰りに親戚の家に寄ったり寄られたりということが多かったでしょうし、おはぎをつくって近所にお裾分けしたりということもあったでしょう。最近はそういうことがめっきり少なくなりました。静かな「秋彼岸」、作者はひとり亡き人と対話をしているようです。(井出野浩貴)
物の角はつきりしたる涼新た
鎌田由布子
秋になったことを実感した一瞬です。暑い夏はまぶしくてものがはっきり見えにくいという面もあるのですが、それよりも心理的なものが多く作用しているでしょう。「物」ではなく「物の角」とした点、説得力があります。すがすがしい心持を、季語「涼新た」が語っています。(井出野浩貴)
猫じやらし否否と揺れ諾とゆれ
小野雅子
いたるところに生える猫じゃらし、雑草と言われる草の中では親しみやすくどこかユーモラスです。こんなふうに詠まれると、たしかにそんな揺れ方をしているように感じられるから不思議です。コスモスや女郎花が揺れてもこんなふうには見えないでしょう。対象をよく見ておもしろい発想が生まれたのだと思います。(井出野浩貴)
海賊の潜みし小島いわし雲
小野雅子
どこで詠まれた句かはわかりませんし、どこであってもよいのですが、瀬戸内海にあまた浮かぶ小島が思い浮かびます。よく晴れた秋の穏やかな海に、かつては海賊の根城があったのです。その頃も秋には今のように鰯雲が広がっていたに違いありません。空と海と時間の広がりを感じます。(井出野浩貴)
桐一葉寺と見紛ふ門構へ
鈴木ひろか
新古今集のころより、桐の大きい葉が落ちるさまに、人は秋を感じ物思いにふけっていました。さらに元をたどれば唐詩の「一葉落ちて天下の秋を知る」の「一葉」は桐の葉のことだと言います。どんなに立派な門構えの家でも、それだけでは寺と見紛うことはないでしょう。「桐一葉」の負う伝統がそのように感じさせたのかもしれません。(井出野浩貴)
稲光明石大橋雲の中
平田恵美子
世界一の吊橋と言われる明石海峡大橋に、雷雲が覆いかぶさるように広がっています。そこを切り裂くように稲光が走り、遅れて雷鳴がとどろきます。この句は動詞を使わず、明石大橋という固有名詞を活かし、大きな情景を見せてくれます。(井出野浩貴)
スカイツリー色なき風を突き抜けて
箱守田鶴
スカイツリーもまた世界一高い塔と言われ、竣工以来、多くの人が句に詠んでいます。類想に陥る危険が大いにあるのですが、この句は「色なき風を突き抜けて」が巧みで類想を抜け出しました。色なき風が吹きわたる下界と、スカイツリーが屹立する秋の高い空とのコントラストが鮮やかです。(井出野浩貴)
助手席の犬の目覚めし秋日和
森山栄子
いつも愛犬を助手席に乗せているのでしょう。気持よい眠りから覚め、飼い主である作者を見上げます。言葉は交わせなくても気持は通いあう、その静けさが季語「秋日和」から伝わってきます。もし犬ではなくわが子の目覚めであったら、この季語ではないでしょう。季語の機微を味わいたいものです。(井出野浩貴)
大絵馬の墨痕淋漓秋麗
森山栄子
地元の由緒ある神社でしょうか。新年に向けて奉納される大絵馬ができあがり、大筆で文字が書かれてゆきます。季語「秋麗」と「墨痕淋漓」という言葉が相俟って、雄渾な筆遣いや墨の匂い、澄み切った空気まで感じさせてくれます。(井出野浩貴)
爽やかやネクタイ揺るる女高生
(ネクタイの爽やかに揺れ女高生)
深澤範子
リハビリを終へて確かや虫の声
(リハビリを終へて確かに虫の声)
辻敦丸
足跡は消えて渚は秋の風
辻敦丸
薄紅葉寺の老犬愛想よき
松井洋子
桐一葉さらりとわれも生きむかな
鈴木ひろか
世に疎くなりし妹背の月見かな
奥田眞二
日おもてを伝ひてゆけり秋の蝶
(日のおもて伝ひてゆけり秋の蝶)
平田恵美子
台風の近づく雨の不気味なる
(台風の近づく細雨不気味なる)
三好康夫
星々の呼び交はすやう虫すだく
福島ひなた
爽やかやシンク拭き上げ夫出社
(爽やかにシンク拭き上げ夫出社)
宮内百花
声小さくなりたるは愚痴秋暑し
三好康夫
子等の声遠くに聞こえ薄原
鈴木ひろか
秋晴の赤松林かがやけり
松井伸子
新涼や朝一番の深呼吸
深澤範子
朝顔のしぼみて赤み差しにけり
福島ひなた
小海線一時間待ち秋桜
鈴木ひろか
戸を開けし腕へ夜風虫の声
(戸開くれば腕へ夜風虫の声)
板垣もと子
糸瓜ひとつ届かぬ高さにて太る
小野雅子
マジシャンにみんな騙され秋うらら
(マジックにみんな騙され秋うらら)
板垣もと子
図書館の閑けさ破る秋の雷
佐藤清子
人も木も草も水欲る残暑かな
板垣もと子
とことことこ塩辛蜻蛉したがへて
(をさな児とことこ塩辛蜻蛉したがへて)
小野雅子
秋茜ロープウェイとすれ違ひ
(秋茜ロープウェイのすれ違ひ)
千明朋代
朝露や熱き息吐き犬戻る
松井洋子
時計塔秋の夕日を背負ひたり
(時計塔秋の夕日を背負ひけり)
片山佐和子
虫の音の和して今宵は降るごとく
福原康之
秋風を部屋に満たして荷物待つ
(秋風を部屋に満たして待つ荷物)
福島ひなた
秋雨の包む木の香の音楽堂
鈴木ひろか
北海道両手広げて花野風
(北海道両手広げて花野かな)
深澤範子
水引の花を潜りて猫白し
(水引の花潜りをる猫白し)
宮内百花
馴れし道見失ひたり秋深し
(馴れし道ふと見失ひ秋深し)
箱守田鶴
覚むるたび独りと思ふ夜長かな
(目覚むたび独りと思ふ夜長かな)
平田恵美子
丹沢を遠見に秋を惜しみけり
松井伸子
秋ゆけり木石の声聞くとなく
(聞くとなく木石の声秋ゆけり)
奥田眞二
峡の田の案山子揶揄ふ鴉かな
穐吉洋子
冷やかや昨日と違ふ靴の音
(靴の音昨日と違ふ冷やかさ)
辻本喜代志
豪商の白壁に沿ひ藤袴
鈴木ひろか
長き夜や遠きネオンの赤潤み
松井洋子
整備士の準備体操秋日和
森山栄子
指先のびつくりしたる秋の水
(指先をびくりとさせて秋の水)
五十嵐夏美
「知音」2025年3月号 知音集 より
「知音」2025年2月号 窓下集 より
「知音」2025年2月号 知音集 より
「知音」2025年2月号 知音集 より
「知音」2025年2月号 知音集 より
「知音」2025年2月号 窓下集 より
金島の次は祖母島稲の波
霧飛ぶや太郎杉より四郎杉
草の露蹴りつつゆけば靴光る
調律の一音一音露しづく
葛蔓空き家と見るや侵しけり
馬追や宿題歯磨き終へし子に
城山へおし移りたり鰯雲
軒先に城を常住秋の風
子規庵を訪う
律さんが欲しい糸瓜の花いちもんめ
吹かれ寄る紫苑の丈のなつかしき
赤とんぼねえやは知らず母はなき
雨風の七曜ありぬ種茄子
秋風のよきかな小人閑居して
二枚舌かんでしまへり秋の暮
ロバよりもラバの血われに秋高し
千里行くわれはラバたれ秋天下
オリーブの実に瀬戸内は今日も晴れ
長すぎし原稿縮め秋暑し
まくなぎや熊除け鈴の鳴りどほし
秋彼岸寺と学校隣りあひ
法力の及ばぬ秋蚊来ては刺す
毬栗や堰を落ちたる水平ら
妻をらず娘やさしき秋日和
秋風や虫魚も人も会ひ別れ
生と死は同じ数だけ蟬の穴
田代重光
パナマ帽父の煙草の匂ひかな
山本智恵
掃き寄せて骸の軽し秋の蟬
佐瀬はま代
ゼロメートル地帯染めたる夕焼かな
井出野浩貴
参道に果てて蚯蚓の草書体
池浦翔子
チェーホフの世阿弥の書架を蜘蛛自在
小倉京佳
自転車をドミノ倒しに初嵐
清水みのり
夏萩に盛りのありし盛り過ぎ
山田まや
父と子の端居に夕餉告げかねて
石原佳津子
大浅間小浅間夏の雲白く
江口井子
鉛筆の掠れ涼しき設計図
田中久美子
国道の白線かすれ原爆忌
井出野浩貴
サングラスはづす波音聞くために
松枝真理子
問い詰めてみても答へぬ金魚かな
立川六珈
尻尾より乾きそめたる蛇の衣
山田まや
宵山の句友句敵酌み交す
米澤響子
嫁終了妻母卒業昼の月
折居慶子
馬術部は美男子揃ひ青葉風
吉田泰子
人寄ればすぐに三線仏葬花
影山十二香
日盛を来て受付へ保険証
小野桂之介
「雨だれ」というショパンのピアノ曲があるが、あの曲ほど激しいものではないのだろう。「木琴」の音と喩えたことで、懐かしさも加わる。昭和の子供達は、音楽の時間に木琴を叩いたものだが、現代の子供達にはそれほど親しみのある音色ではないだろう。ピアニカ以前の教材であった。
この句の要は「木琴の音」である。ピアノの音ではありきたりになる。雨だれを耳にした時、木琴の音のようだと聞き取った聴覚で勝負した俳句。毎日雨が降り続く梅雨時ではなく、梅雨の季節がそろそろやってくるという時期のものだから、説得力もある。このようにずばりと「木琴の音」と断定した点がよい。
蛇の抜け殻を見かけた時、俳人の興味を持って見つめた句。とかく女性は、蛇だの虫だのを気味悪がる傾向があるが、句材として出会った対象を、逃げずに見つめた態度を見習いたい。注意深く観察していると、尻尾のほうから乾き出したのだろう。頭の中でこしらえるのではなく、実際に見て作った確かさがある。
熊蟬の大音声の大路かな
米澤響子
熊蟬の声は関西の夏の象徴だ。一匹でもかなりのボリュームで鳴き立てる。関西で暮らした歳月で、もっとも印象的だったものだ。
この句の大路は、作者の住む京都の都大路であろう。京都の猛暑が最高度に達するころ、祇園祭が始まる。この祭の源は疫病退散の祈祷であったから、千年以上前から盆地の暑さは人々をまいらせた。今回の一連の作品は、祇園祭に係わる季語であるから、その頃の京都で詠まれたものだろう。朝から、じゃんじゃんと京都の町中で鳴き立てる熊蟬を、迫力を持って描写している。