待つ人のゐてこその家秋の暮
岡本尚子
「知音」2023年2月号 知音集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2023年2月号 知音集 より
朝霧や落葉松林銀を刷き
露草のつゆまたたかず八重葎
朝戸開け草刈の香の迸る
秋風や草津白根の背を流し
盗み摘む買物篭へ釣舟草
濃竜胆剪るや指切る山の水
調律の遠音気怠し避暑ホテル
退屈も湯治のうちや法師蟬
朝曇救急車過ぎ赤子泣き
棍棒投げ交はすごとくに花火爆ぜ
おしろいの路地の日暮のなつかしく
盆僧の二タくせ三くせありげなる
蓮池のをちこちの揺れ交はしけり
久闊やまそほの芒葛の花
かなかなやありては憎きことばかり
心ぼそきことをまた言ふ夕ひぐらし
山道の斥候めいて赤蜻蛉
いつの間に小石が靴に月見草
雷雨来る堪忍袋の緒が切れて
湯煙の息吹きかへし夕立晴
寄る人に蛍袋は顔上げず
ゴンドラを放りこんだり青山河
霧しのび入りて山襞たぶらかす
赤とんぼ千五百二日の旅の空
降り出せば声太くなり鬼灯売
小野桂之介
生ビールみんな揃ふを待ちきれず
小野雅子
長梅雨の肩を嚙みたる自動ドア
小倉京佳
さなぎより名付けて飼ひし甲虫
岡村紫子
すかんぽや風連別の水滾り
佐藤寿子
汗の子の髪も眸もくるくると
川口呼瞳
聞き役に徹して崩す冷奴
鴨下千尋
目高飼ふバリアフリーの待合室
栃尾智子
草いきれ抜けて真白き灯台へ
牧田ひとみ
沖縄の海より蒼き熱帯魚
青木あき子
一木に策を練りをり梅雨鴉
高橋桃衣
家に寄りつかぬせがれの涼しさよ
井出野浩貴
腰に受く魔女の一撃梅雨に入る
藤田銀子
凌霄のほたりと落つる閑かさよ
牧田ひとみ
白日傘ふはとかたむき舟傾ぐ
くにしちあき
柿の花父亡き町にしきり落つ
小倉京佳
刺青もビジャブも四万六千日
川口呼瞳
大船鉾地中ゆたかに水湛へ
米澤響子
風の路地抜けて大船鉾正面
志磨 泉
糸鋸を兄に教はる夏休
月野木若菜
「赤ん坊」も「さくらんぼ」もどちらも愛らしい存在である。脚韻を踏みながら、軽やかに対句形式で詠い上げているが、「襲来」と「到来」の意味の差が読み手を考えさせる。「襲来」はよくないものや恐ろしいものがやってくること、「到来」は、到来物というように嬉しい贈物が届くこと。
本来は赤ん坊も神様からの贈物だ。しかし何故襲来と言っているのだろう。作者は最近初孫を得た。出産後の娘さんとともに赤ちゃんがやってきて、日常生活が忙しさで大変なことになっているのだろう。ひと世代前だったら、初孫を得た多くの女性が四、五十代だった。ところが今は六、七十代である。出産年齢が上がったとともに、おばあちゃん世代も高齢化した。四、五十代の体力と、六、七十代の体力とを比較してみると、「襲来」の一語におおいなる実感が込められていることがわかるだろう。いうまでもなく、初孫がやってきたことは嬉しいに違いないのだが、「孫」という言葉を使わずにこれだけのことを定型で表せるのは、並大抵のことではない。よくぞこのように人生の実感を詠い上げたものだ。
聴覚で捉えた現実の音と追憶の音。昭和生まれの私達の母親は、よくミシンを踏んで子供の洋服を縫ってくれたものだ。現代のような電動ミシンではなく、足踏み式のものであったから、その音も家じゅうに響き渡っていた。しかし、夕立が来ると、ミシンの音も消されがちだったエアコンもない昭和の家の様子が思い出される。「くる」と「消える」という二つの動詞を重ねて、夕立が来るや否や、ミシンの音が消えるという勢いを表している。私の母もそうであったが、私達姉妹の服はすべて手作りだったので、母は一日中ミシンを踏んでいたような記憶がある。今でも夕立の音を聞くと、作者の耳に甦る昔があるのだろう。
「乗り込む」という表現から、たまたまボートに止まっているのではなく、雨で人間が乗っていないので、我が物顔にボートを楽しんでいるようだ。知能程度の高い鴉のことだから、晴れた日には人間達が楽しそうに操っている貸しボートを見下ろして、隙あらば、と思っていたのかもしれない。そのチャンスがやってきたとばかり占有しているのだろう。しかも二羽であるところまで人間達の真似をしている。
「知音」2023年2月号 知音集 より
「知音」2023年2月号 知音集 より
「知音」2023年2月号 知音集 より
「知音」2023年1月号 知音集 より
「知音」2023年1月号 知音集 より
「知音」2023年1月号 知音集 より
「知音」2023年1月号 知音集 より
「知音」2023年1月号 知音集 より