噴水の止まりて夜はのつぺらぼう
大橋有美子
「知音」2020年9月号 窓下集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2020年9月号 窓下集 より
沿道の泡立つ卯の花腐しかな
卯の花腐しあづま路の果までも
独りに倦み卯の花腐しにも倦みし
段なして横山誘ふ青嵐
鶯老を鳴く東京を出る気なく
過ぎてより気づく師の忌や若葉寒
疲れ目を養ふ新茶汲みにけり
黒日傘医者通ひに褪せにける
師の齢すぎし五月の木偶坊
足裏の五臓六腑や疫の五月
カラヤンの鬣なびく五月かな
コンクリート漬の大樹の緑かな
十薬あまた干して百年またたく間
赤蝮きりきりと毒突いてくる
ポケットに青大将のしんねりと
桑の実に舌そめてわが「ヰタ・セクスアリス」
午後からは土砂降りといふ梅雨入かな
尺獲にして美しき青纏ひ
母の日の酢漿草こんなにも咲いて
シャインマスカットほれぼれ袋掛
この道のなかんづくこの桐の花
更衣車掌のポニーテール揺れ
蚕豆の唇笑んでをるや否
稿未だ蚕豆は旬過ぎたれど
宵からの雨となりたる蜆汁
島田藤江
一処鱗をなせり花筏
前田沙羅
さへずりや池につき出し写経の間
永井はんな
月と日に照らされ涅槃したまへり
山田まや
花疲れ花に背を向け川を見て
竹中和恵
マカロンの箱にぎつしり春の色
中津麻美
身ふたつのうつらうつらと桜草
清水みのり
花市の競り勝ち五秒かすみ草
岡本尚子
糸桜風に応へて散らしけり
前田星子
掌を駆ける馬欲し四月馬鹿
帶屋七緒
全集もステレオも古り雛の家
井出野浩貴
許すとは認めることや春来たる
小林月子
本買ひに隣の町へ花菜風
井戸ちやわん
耕せり土が光を放つまで
中田無麓
子の役目親の責任鳥雲に
山崎茉莉花
耕人の舐めて今年の土計り
帶屋七緒
初蝶の思ひがけなき高さまで
前山真理
太陽の塔の裏側鳥の恋
中野のはら
春風やパレットに色ありつたけ
小塚美智子
草団子買うてビニール傘忘れ
中津麻美
新約聖書のマタイ伝の一節を思い出す。そこには、あわれみ深い人たち、心の純粋な人たち、平和を求める人たちを称えるとともに、嘆き悲しむ人たち、義に飢え乾いている人たち、義のために迫害されてきた人たちをも、さいわいであると称えている。それは何故かということを考えるとき、私達は神の心の広さ、人間の弱さを思い知るのである。
この句は明らかにその聖書の一節を意識した表現だ。卒業するにあたって、今までの歳月を悔やんでいる生徒を前にしたのであろう。もっと勉強すればよかったとか、友達をもっと作ればよかったとか、後悔は果てしがない。その生徒を前にして、悔いを知るということは今後の君の人生に大いなる糧が与えられたということだと、称え祝福しているのだ。
作者の教員という職業から生まれた心深い一句だ。
句の上では「亡き夫」とは言っていないが、想像力のある読み手なら過去形が語っている事情を読み取るだろう。梅が見頃だというので来てみたのだが、茶屋の床几に腰かけて温かい甘酒を飲もうということになった。その時かつて夫とここに来たときも、この茶屋で休んで甘酒を一緒に飲んだことを思い出したのだ。何も語っていないが、その折の夫との話題や二人の言葉が、梅の花の香とともに鮮明に甦ったことだろう。このように俳句では一番言いたいことを言わないでおいても、季語が語ってくれるのである。
しゃぼん玉を吹いている子供を描写した句だが、吹くたびに少しずつ前へ歩を進めていることに気付いた。ありがちなことだが、なんと可愛らしい動作だろう。子供がしゃぼん玉を吹いている光景を愛情を持って見つめていなければ、なかなか描けないことである。春の季語である「しゃぼん玉」からは、風の柔らかさや日射しの明るさ、子供たちが外で遊ぶ季節になった声なども伝わってくる
『句集 心音』 角川書店 2006年刊 より
「知音」2020年9月号 知音集 より
「知音」2020年9月号 知音集 より
「知音」2020年9月号 知音集 より
「知音」2020年9月号 窓下集 より
「知音」2020年9月号 知音集 より
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