木の芽晴クラーク像の髭豊か
竹内悦子
「知音」2021年6月号 知音集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2021年6月号 知音集 より
「知音」2021年6月号 知音集 より
ほつこりとしてむくつけき冬芽かな
ひとつつふたつすなはち無数冬木の芽
葉牡丹の渦のむらさき濃むらさき
北風に首根つ子掴まれてゐる
寒鴉擬傷のごとく羽曳いて
豹柄のフェイクの男息白く
三叉路の次も三叉路空つ風
人形の家の顛末冬銀河
まなうらに凍蝶明滅手術果つ
手術台椅子に戻りて大地冬
テレビ見ず着信読まず春を待つ
点眼の時刻違へず日脚伸ぶ
目つむれば異国の湖辺冬ごもり
寒満月術後の視界あらたむる
寒月も水晶体も濁りなし
寒の内半眼に日をやりすごし
一人湯の肩をこつんと柚子ひとつ
自画像の仏頂面に御慶かな
起きてきし娘とまづは御慶かな
配達のゲラを受取り御慶かな
敬礼を添へて守衛の御慶かな
仏壇の塵を払ひて悴める
悴んで見上げ電光掲示板
春近きスカート丈に女生徒ら
転んでも平気な子供初氷
小山良枝
雪吊の縄垂らしたるまま昼餉
吉田しづ子
河豚を競るええかええかと目に聞いて
山本智恵
命綱なぶるビル風十二月
井出野浩貴
河豚料理また語らるる三津五郎
鴨下千尋
先師の句心に落葉踏みゆけり
山田まや
白障子穴から犬の鼻のぞく
高橋桃衣
奥宮の巨石憮然と冬に入る
米澤響子
両岸の紅葉に応へ船下り
黒羽根睦美
飾り物もうちよいと欲し熊手市
小野雅子
寝返りを打てず眠れず夜寒さよ
高橋桃衣
飾りつけ終へし聖樹の所在なげ
くにしちあき
湯豆腐や父逝き母逝き戦後逝き
井出野浩貴
笹鳴に視線移せば飛び立ちぬ
谷川邦廣
ムートンの敷かれ聖夜の予約席
中津麻美
大根をおろすや肩を怒らせて
井戸ちゃわん
ふり返りたれば錆色冬紅葉
前山真理
一行詩書く日もあらむ日記買ふ
黒須洋野
松原の一歩一歩に秋惜しむ
清水みのり
ポインセチア白墨の粉ふりかかり
小倉京佳
「三食昼寝付き」とは専業主婦の恵まれた境遇を揶揄する言葉としてひところ流行った。しかしこの句は今月号の他の作品を見ると、怪我で入院をしたときのものであることが察せられる。入院中はたしかに安静を保つために三食昼寝付きである。一日を楽に過ごすことができるのに、この寂しさはどこからやってくるのだろう。
この句はもちろん家事以外に仕事を持たぬ主婦の句としても鑑賞することができる。子育て最中は忙しさに追われ、三食も自分で準備するわけだから、専業主婦がそれほど気楽な生活とは思っていなかった。しかし子供にも手がかからなくなり人生の秋を迎えるころ、傍目には幸せこの上ない境遇でも、もの寂しさを覚える主婦は結構多い。その点が同じようなニュアンスの季語である「春愁」とは違うのだ。
こちらは仕事をしながら子育てをした女性の句である。上五中七までは自分の境遇を改めて思い返している。働き盛りも子育ても過去のものになった今、「日記買ふ」とはどういう心境なのだろうと改めて思わせる句だ。仕事の覚書や手ごたえ、子育ての喜びや悩みを書きつけるのではなく、自分自身の今とこれからを書くための日記であることに思い至る。
この句を読んで、吉田健一の『餘生の文學』を思い出した。若いときには試験のためとか仕事のためとか、何かに役立てるために文学に親しんだものだが、実社会との関係が無くなった余生にこそ真の文学の楽しみがある、と書かれていた。「餘生があつて文學の境地が開け、人間にいつから文學の仕事が出来るかはその餘生がいつから始まるかに掛かつてゐる」。
「蔓たぐり」とは収穫が終わった後の枯蔓を手繰り寄せて抜くこと。瓜類や豆類などの収穫をしたことのある人には、これも大事な作業の一つとわかるだろう。枯蔓の先に末生りがついていたりするので、それも採らなければならない。甘藷の収穫でも、蔓たぐりの作業は大切だ。しかしこの句は、そんな面倒くさいことは生真面目な者に任せるというわけだ。一読笑いがこみ上げる作品だ。こうは思っていても、なかなかずばりと言うことはできないものである。作者の性格も表れている句といえよう。
「知音」2021年6月号 窓下集 より
「知音」2021年6月号 窓下集 より
「知音」2021年6月号 知音集 より
「知音」2021年6月号 知音集 より
「知音」2021年6月号 知音集 より
「知音」2021年6月号 知音集 より
「知音」2021年6月号 知音集 より