緊急事態宣言の延長、医療の逼迫の状況から、10月の例会は投句形式といたします。
例会係
客観写生にそれぞれの個性を
緊急事態宣言の延長、医療の逼迫の状況から、10月の例会は投句形式といたします。
例会係
『句集 わが桜』 角川書店 2020年刊 より
『句集 晩緑』 朔出版 2019年刊 より
「知音」2021年1月号 知音集 より
「知音」2020年12月号 窓下集 より
「知音」2021年1月号 窓下集 より
「知音」2019年12月号 窓下集 より
首すぢに大暑の初光刺さりけり
垂直の千の沈黙青葡萄
向日葵の待ち伏せに会ふ夜道かな
短夜の寝覚の水腥き
短夜の川より衢明けにけり
川風に明易の床浮くごとし
落蟬やわが戸叩きてこときれし
子へものを書けば遺書めく夜の秋
ロック座の裏に目高を飼ふ男
山百合を抱へて死者に逢ひに行く
夏炉焚くシェヘラザードの物語
蛍火や千夜一夜のひとよにて
明滅の滅を数へて蛍の夜
あとかたも残さざるべく蛍の夜
汕頭のハンカチーフのやうな嘘
似てゐると思ふ山椒魚とわれと
母馬を見つつ仔馬の試し駆け
吹き上ぐる海霧に嬲られ蝦夷黄菅
連射砲めきし打水馬鈴薯へ
恋螢はらとこぼれてついと舞ふ
流れたる星の尾を断つマストかな
短夜の聞き慣れぬ鳥さつきから
託児所の満艦飾の星の笹
寝冷えしていつのも台詞パパ嫌ひ
雲蹴つて蹴つてあめんぼ雲の上
高橋桃衣
刻刻と樗の花は灯の色に
吉田しづ子
梅雨鯰己が濁りに隠れけり
福地 聰
ソーダ水裏腹なこと言ひ続け
岡本尚子
かくて二人黙々と枇杷啜りけり
鴨下千尋
母に添ひ歩行訓練夏木立
月野木若菜
風不死も恵庭も夏の霧の中
中野のはら
梅雨晴の内地より来て蝦夷の雨
永井はんな
神殿の眼下五月の地中海
大野まりな
桜蕊降る棟梁の大工箱
志磨 泉
其の人も同じ鉢買ひ桜草
山田まや
吹流し漁師継げよと言はねども
藤田銀子
軽鳬の子がゆく横になり縦になり
井戸ちゃわん
ラーメンに玉子を落とす昭和の日
吉田林檎
我がための新茶を買うて帰りけり
磯貝由佳子
古民家と呼ぶには廃れ花楓
石原佳津子
父の日の子よりの電話妻が待つ
福地 聰
ハンカチを結びて母の旅鞄
乗松明美
余り苗にも山越しの余り風
中田無麓
蟇ちょつと苛めてみたくなる
高橋桃衣
疫病流行の時節柄ということも考えられるが、この句はもっと深い情を語っていると思う。病気であることを知ってすぐにも見舞いたい間柄なのだろうが、あえて見舞わない。それは情がないということではなく、あえて見舞わないことも情があることなのだ、という句である。春の月を眺めて、病室からもこの月を眺めているであろう病人を思いやっている。八十代後半の作者の年齢を考えると、病んで衰えているときにその姿を見られるのは、自分でも望まないことであろう。だからこそこうした句が生まれたのであろう。人生経験を重ねた人には共感を呼ぶ作品である。
先日「ダーウィンが来た」を見ていたら、小鳥たちの鳴き声にも言葉と同じような意味があるらしい。人間の耳には同じ囀りとしか聞こえないが、警戒を発しているとき、餌のありかに呼んでいるとき、愛の表現、それぞれ使い分けているということだ。この句を読んでそれを思い出した。
「囀り」という季語は、鳥の恋の季節が春なので春のものになっているが、大雑把に恋の季節とはいっても、喜んでいるとき、呼びかけているとき、拒んでいるときがあるだろう。作者の耳にはそれが聞き分けられているのかもしれない。
お母さんはもうこの世にいないのだろう。作者は今年還暦、新茶をゆっくり味わいながら、お母さんのちょうどこの年齢のころを思い出したのだろう。あのころ自分は若かったから、お母さんが何を思っていたのかわからなかった。今自分がこの年齢に達して、子供もあのころの自分と同じ年代になった。今お母さんが元気でいたら、子育てのこと、人生のこと、何を語るだろうか。そんな心の余裕を語っているのが季語である。子育てに必死だったころ、生活し盛りだったころには、新茶をゆっくり味わうというような時間も心の余裕もなかった。
「知音」2020年12月号 窓下集 より
「知音」2021年1月号 窓下集 より