柘榴割れ午後に一雨来る兆し
岩本隼人
「知音」2020年12月号 知音集 より
客観写生にそれぞれの個性を
「知音」2020年12月号 知音集 より
「知音」2020年9月号 知音集 より
「知音」2020年12月号 知音集 より
「知音」2021年1月号 知音集 より
秋蟬のとほき満ち干の未明より
供香よりひと日始まる濃龍胆
秋蟬の乙張も失せ呂律失せ
小気味よく水弾きけり秋茄子
束ねてもコードくねくね秋暑し
おしろいの花や病める児覗きをる
窓掛がゆらぎたるのみ家の秋
無花果や婚姻色を秘めゐたる
くびくくり坂の向日葵くびくくり
陸続として向日葵の絞首刑
朝顔や朝つぱらから死のはなし
テーブルの一点舐めて秋の蠅
ふと苦き思ひよぎれり桃を剥く
少しづつ夜の崖崩れ葛の花
今生のおせん転がしおしいつく
宗論のはてのだんまりおしいつく
子目高を数へて話そつちのけ
一週間だけの長幼目高の子
朝顔を叩きゐし雨小休止
秣干す日高の秋日鋤き込んで
均されし空地に呆け猫じやらし
シャツの背にすがる啞蟬何とする
長雨に飽いてしもたと蚯蚓鳴く
新涼や母もたのみし手摺棒
一つ事念じて茅の輪くぐりけり
前田沙羅
馬の仔の膝のびのびと風の中
大橋有美子
形代に我が名楷書で記しけり
村松甲代
顔見えぬ乍らの会釈木下闇
村地八千穂
母の日を羨む父に父の日来
三石知左子
聖五月デルフト焼の藍の濃く
𠮷田泰子
梅雨深し検査ベッドに横たはる
池浦翔子
蜥蜴現る鎌倉殿の化身なり
藤田銀子
鬼やんまの目もて私を見てゐたる
山本智恵
汐の香の髪を解きてサングラス
橋田周子
スキップの子とすれ違ふ緑雨かな
吉田林檎
水の星讃へて鳰の浮巣かな
井出野浩貴
腸の捻れ戻りぬ青嵐
岩本隼人
黄金週間急に子の来てすぐ帰る
小池博美
嘘すこし混ぜるも本音半夏生
藤田銀子
聖堂の柱ひんやり日の盛り
くにしちあき
指図する母のいまなき盆用意
清水みのり
更衣老い先有りと疑はず
石田梨葡
夏来たり歩道橋より町眺め
立川六珈
草を引く腰をのばせばまだ半ば
平岡喜久子
この句のポイントは最後の「は」である。この助詞一つで、作者の通常の暮らしぶりを語っているのだ。働き盛りの年代の人々は、有給休暇といえどもなかなか取れないのが現状だ。久しぶりに有給休暇が取れた日、アイスクリームを買って食べた。そのことが忙しい自分に対するご褒美でもある。贅沢なケーキや高価なワインなどではなく、「氷菓」であるという点に非常に親しみを覚える。欧米社会のようにバカンスが一ヵ月というような暮らしぶり、働き方は日本はまだまだ遠いのだ。
初節句であるからには、親族の赤ちゃん、お孫さんであろう。孫を詠んだ句に佳句は少ないが、この句は孫可愛さの句でない点目を引いた。「この子いつでも泣いてゐる」とは、おばあちゃんの句としてはかなり冷静で突き放した詠みぶりである。もちろん口に出して言えることではない。しかし生まれてまもない赤ん坊というものはこんなものである。初節句を喜んでいるのは両親とその両親たちばかり。着慣れないものを着せられて、普段いない大人たちに覗かれ抱かれ、かわいい、かわいいと言われても当人は居心地悪いことこの上ない。孫がかわいいのは万人共通のことだが、自分だけにかわいいのであることを孫俳句の作り手はどこかで意識していなければならないと、自戒をふくめて常々思っている。
「底紅」とは花の底だけ紅く、はなびらは白い木槿のこと。多分幼いとき暮らした家に咲いていたのだろう。白木槿よりも印象的であるし、かわいげがあるので、妹と遊んだ記憶と結びついているのだ。その花を見たとき、現在の妹ではなく、幼いときの妹の顔が思い浮かんだ。言うまでもなく作者自身も幼かりし頃、両親も若かった頃。昔から変わらない花には人々の記憶と結びついている背景があるのだ。その点でこの句の季語は動かない。
「知音」2021年1月号 知音集 より
「知音」2020年12月号 知音集 より
「知音」2021年1月号 知音集 より
「知音」2021年1月号 知音集 より
「知音」2021年1月号 知音集 より