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◆特選句 西村 和子 選

旅人の伏し目がちなる焚火かな
小山良枝
「焚火」の前に立つと、原始人の感覚が甦ります。近年市街地での焚火が禁止されているのは残念なことです。この「旅人」は都会人なのでしょう。なにか屈託や事情を抱えているようです。焚火の向こうの暗闇を感じます。(井出野浩貴)

 

手袋を貰ひ仲間にしてもらふ
板垣もと子
仲間でお揃いの「手袋」をしているのでしょうか。十代後半の女の子という感じがします。ほかのものでも良さそうなものですが、寒風吹きすさぶ日に「手袋」をしたときのような、温かい仲間なのでしょう。(井出野浩貴)

 

首出して気づくセーター後ろ前
西山よしかず
だれもがこんなことをした経験がありそうです。ただ事実を描写しただけですが、はからいのない詠みぶりに、くすりと笑わされてしまいます。(井出野浩貴)

 

人影と思へば鏡冬館
小山良枝
鏡に映ったおのが姿に、それとは知らずたじろいだ――それも静まりかえった「冬館」なればこそでしょう。試みに季語を「夏館」に入れ替えて比べてみると、「冬館」が最適であることが明らかです。(井出野浩貴)

 

父の忌やブランデー注ぎ胡桃割る
矢澤真徳
亡き父上がお好きな組み合わせだったのでしょうか。「ブランデー」と「胡桃」にゆったりとした豊かな時間が流れます。故人の人となりが偲ばれます。(井出野浩貴)

 

笑ふしかなくて笑ふや冬夕焼
田中優美子
「しかなくて」ということは、本当はつらい状況なのです。久保田万太郎の<木の葉髪泣くがいやさにわらひけり>に通ずるものがあります。季語「冬夕焼」が語っています。(井出野浩貴)

 

銭湯の煙も暮れて水巴の忌
矢澤真徳
渡辺水巴の忌日は八月十三日です。残暑は厳しいのですが、夕方には秋を感じはじめる頃です。銭湯の煙に夕刻のあわれを見出す感性は、水巴の<ひとすぢの秋風なりし蚊遣香>と響きあいます。(井出野浩貴)

 

ちぐはぐな老いの会話や日向ぼこ
若狭いま子
長年連れ添ってきた老夫婦と思われます。ちぐはぐな会話でも、まあいいかと思えるのはこれまでの歳月の積み重ねがあるからでしょう。季語「日向ぼこ」がすべてを語っています。(井出野浩貴)

 

石蕗の花棚田は今も野面積み
森山栄子
どこだろうと調べてみたら、佐賀県唐津市の蕨野の棚田が野面積みで知られているようです。収穫が終わって田んぼは枯れ色ですが、黄色い「石蕗の花」が野面積みの石垣に映えているのでしょう。静かな初冬の風景が描けました。(井出野浩貴)

 

夜半の雨あがり青木の実の真紅
奥田眞二
「青木の実」は、冬の寂しい庭に真っ赤な色を添えてくれます。幼い頃集めて遊んだ人も多いせいか、郷愁を誘います。雨に洗われた赤い実を提示するだけで、庭のたたずまいも見えるようです。(井出野浩貴)

 

 

◆入選句 西村 和子 選

読みさしの「みなかみ紀行」秋深し
(読みさしの「みなかみ紀行」秋深む)
穐吉洋子

刈田より煙二筋青空へ
(青空へ煙二筋苅田より)
長谷川一枝

菊日和楽屋より猿出て来たり
五十嵐夏美

手を振れば汽笛鳴らして渓紅葉
鈴木ひろか

枯菊の色失はず折れもせず
小野雅子

机から手をつけたりし煤払
(机から手をつけてみる煤払)
鏡味味千代

住む人の今なき庭の秋薔薇
千明朋代

秋落暉一直線に海走る
(海走る一直線の秋落暉)
鎌田由布子

風音に後れて銀杏黄葉散る
藤江すみ江

仏頭のごろり落葉の骨董市
田中花苗

冬あたたかマシュマロひとりひとつづつ
(冬あたたかマシュマロひとり一つづつ)
松井伸子

焼芋屋日がな通りを眺めをり
(焼芋屋通りを日がな眺めをり)
森山栄子

天井の奏楽天女秋の声
田中花苗

落葉焚一直線に煙立つ
(落葉焚き一直線に煙立つ)
岡崎昭彦

初時雨三井の晩鐘くぐもりて
中山亮成

歩くより這ひ這ひ速し冬日和
(歩くよりハイハイ速し冬日和)
田中花苗

川底の石も光れる小春かな
(川底の石も光りて小春かな)
岡崎昭彦

水鳥や同心円の波紋立て
岡崎昭彦

産土の社に佇てば秋気澄む
千明朋代

早朝の刈田の空へ気球かな
鈴木ひろか

掘割の白壁を染め冬紅葉
(掘割の白壁染める冬紅葉)
中山亮成

物音の絶えたる我が家冬籠
三好康夫

本堂へ軋む回廊菊かをる
小松有為子

秋の雲さらりと別れ告げゆけり
松井洋子

文化の日子に缶バッジもらひたる
松井伸子

秋気澄む立山連峰水色に
(水色に立山連峰秋気澄む)
藤江すみ江

竹箒音歯切れ良き冬来る
(歯切れ良き竹箒の音冬来る)
岡崎昭彦

軽く手を挙げし別れや冬に入る
中花苗

よそ行きの毛皮のコート母の香よ
チボーしづ香

境内の耀ふところ桂黃葉
五十嵐夏美

朝寒や点点点と作業灯
(朝寒し点点点と作業灯)
小野雅子

龍淵に潜みて雲の自在なり
森山栄子

くすみたるステンドグラス冬に入る
(くすみたるステンドグラス冬はじめ)
鈴木ひろか

焼芋をねだる子の目のまん丸き
鏡味味千代

公園の隅のテントの菊花展
五十嵐夏美

ぱらぱらとめくりてたどる古日記
西山よしかず

丹精の黄菊自慢の荒物屋
五十嵐夏美

惣門の朽ちゆくばかり櫨紅葉
(惣門の朽ちゆくばかりはぜ紅葉)
松井伸子

大半は入院日記となりにけり
西山よしかず

色変へぬ松の生垣名門校
三好康夫

冬雲の裂け目貫く火矢の筋
西山よしかず

菊人形遠き炎を見てをりぬ
(菊人形遠い炎を見てをりぬ)
小山良枝

地に満つる銀杏落葉といふ光
田中優美子

月冴ゆる温泉津ゆのつの町を下駄鳴らし
巫依子

次郎柿ぱんぱんに日を照り返す
森山栄子

駐車場フェンスも借りて掛け大根
(駐車場フェンス借りたる掛け大根)
穐吉洋子

旅終へて予報通りの冬の雨
鎌田由布子

白々と大川べりの枯芒
(白々と大川べりに枯芒)
若狭いま子

笑顔にはなれぬ二人や落葉踏む
鏡味味千代

手を当てて開運柱冬ぬくし
田中花苗

心身の清まる思ひ菊膾
若狭いま子

海昏れて漁火冴ゆる旅の窓
巫依子

枯蓮の下の世界の真暗闇
西山よしかず

掃き寄せて侘助の白穢しけり
水田和代

濃く薄く枝を広げて冬紅葉
飯田静

半世紀同じ家計簿冬に入る
飯田静

雪螢金地院へと消えゆけり
巫依子

銀杏散る千秋楽の中村座
箱守田鶴

冬の月骨格標本めく木立
(冬の月骨格標本なる木立)
鏡味味千代

 

 

◆今月のワンポイント

 「深む」は他動詞

今回、<読みさしの「みなかみ紀行」秋深む>という句が、<読みさしの「みなかみ紀行」秋深し>へと添削されています。辞書を引いていただきたいのですが、「深む」は口語の「深める」の意味の他動詞であり、「深まる」という意味では本来使えません。ですから、「秋深む」でも「秋深し」でも通用するときは「秋深し」にすべきでしょう。

ただし、文芸は文法がすべてではありません。

冬ふかむ父情の深みゆくごとく 飯田龍太

このような名句を前に文法を云々しても野暮というものでしょう。ついでに紹介しておくと、

除夜の湯に肌触れあへり生くるべし 村越化石

という句があります。本来「べし」は動詞の終止形に接続しますから「生くべし」が正しいのです。<この町に生くべく日傘購ひにけり>(西村和子)のように。けれども、化石の句はたとえ文法的には誤用であっても、リズムが心境を語っていて一字たりとも揺るぎません。師匠の大野林火も直しませんでした。

かように圧倒的な名句が生まれるならば、破格は問題になりませんが、われわれは文法に則った作句を心がけましょう。

井出野浩貴

憂国忌  西村和子

玲瓏と冬天朗々と鳶

禍事を祓へたまへや銀杏散る

手品師の鳩紛れをる冬日向

綿虫やひとりごころを嗅ぎつけて

綿虫や御納戸色を纏ひたる

憂国忌天の金瘡擦過傷

残照に梢をののく憂国忌

憂国忌罪悪感のいづこより

 

この児抛らば  行方克巳

紅葉且散る石のきだ水の段

虫食ひも病葉も冬紅葉かな

落葉籠てふ一品を展じたる

落葉籠にも夕しぐれ朝しぐれ

寂庵のけふも居留守か雪螢

色変へぬ松にも紅葉敷きつめて

紅葉渓この児抛らば夜叉となる

冬紅葉阿弖流為アテルイの血に母禮モレの血に

 

冬に入る  中川純一

紅天狗茸の観察這つて寄り

霧はれて来し初島の仔細かな

手芸屋に目当の小物文化の日

縋りつく菊師に政子目もくれず

冬に入るクロワッサンがほろと裂け

バスを待つ唇乾き今朝の冬

白鳥を彫り起こしたる朝日かな

大声で呼ばれ振りむき蓮根掘

 

 

◆窓下集- 1月号同人作品 - 中川 純一 選

思ひ草しやがんで覗きゐたりけり
山田まや

狩人のベルトに一枝白桔梗
山本智恵

面会の十分了へて虫の声
太田薫衣

夫の忌や未だ生かされて秋桜
村地八千穂

西域の星の色なる葡萄かな
井出野浩貴

稲刈の列凸凹となる遅速
松井秋尚

きのこ山茸匂ひて雨激し
島田藤江

初恋の話などして敬老日
橋田周子

花街の湯屋の灯点り夕月夜
芝のぎく

七色のもう暮れ初めし秋の海
大村公美

 

 

◆知音集- 1月号雑詠作品 - 西村和子 選

嬉しくて羽ばたき止まぬ小鳥かな
高橋桃衣

拾はむとかがみ椎の実こぼしけり
井出野浩貴

母によく似た人ばかり処暑の街
藤田銀子

右琵琶湖左秋草湖西線
島野紀子

十五夜のコインランドリーにひとり
井戸ちやわん

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

母の手のスローモーション曹達水
佐々木弥生

身に入むや血脈の絶え歌残り
牧田ひとみ

宝くじ売り場に上司秋の宵
成田守隆

風にふと押し出されたり秋の蝶
松枝真理子

 

 

◆紅茶の後で- 知音集選後評 -西村和子

秋の空吸ふ前に息吐き出さん
高橋桃衣

高く晴れ上がった秋の空を仰いで、深呼吸しようとしたときの作。爽やかな新しい空気を存分に吸い込もうとするには、その前に肺に残っている空気を吐き出さなければならない。このことは深呼吸だけではなく、自然界や人体をはじめとする大方の物に通じる真理である。
「秋の空」は動かない。試しに他の季節に置き換えてみるといい。春では心地よすぎるし、夏は辛い。冬はどんよりしている。清新なものを取り入れようとするとき、澱んでいた空気は吐き出した方が効果が期待される。

 


彦根から守山からのヨットの帆
島野紀子

地名が効果的に用いられた句。「彦根」と「守山」といえば、琵琶湖の光景であることが一読してわかる。湖にヨットが繰り出してゆく光景を描くのに、湖という言葉を使わない工夫が凝らされている。琵琶湖の地理が頭に入っている人には、彦根から出て来たヨット、守山から進んできたヨットの方角や向きがすぐに想像できるに違いない。
海のセーリングは激しい動きがあるが、湖のそれは堂々として静々としている。そんなことも見えて来る句だ。

 

 

帰り来る人は無けれど水を打つ
橋田周子

一人暮らしの境遇から生まれた句。家族がこの家に帰って来た頃は、その時刻になると玄関から門までの辺りに水を打っていたのだろう。それは、昼間の火照りを冷ます効果はもとより、外で働いて帰ってくる家族を迎えるための、主婦なりの心遣いであった。何十年か経って境遇の変化を経て、家を守っている作者。もうこの家に毎日帰ってくる人は無いのだけれど、長年の習慣を守っている。「水を打つ」という季語は、とかくもてなしの思いで詠まれることが多いが、この句は自宅に水を打つ作品である。おのずから作者の人生をも語ることになった。