2018年4月号

窓下集 - 4月号同人作品 – 西村和子 選

霊験を潜めて暗し冬の水  石山紀代子
寒鴉犯行現場にはや戻り  久保隆一郎
霜柱母の裏木戸開いてをり 井出野浩貴
聖夜守る燭一灯に心こめ  江口 井子
初刷の瓦礫の街の母と子よ 島田 藤江
落花浴びつつぼんぼりを外しをり 栗林 圭魚
道草の好きな男の冬帽子  天野きらら
雪空を翔け抜けたるは鷲ならむ  中川 純一
木の葉散り止み朝香宮邸昏し  高橋 桃衣
冬薔薇革命は死後なりや否  中田 無麓

知音集 - 4月号雑詠作品 – 行方克巳 選

トロ箱を顔で抱へて市師走  小野桂之介
ベランダに続く枯野の先に夫 加藤  爽
父に似し眉根のきゆと年酒酌む  上野 文子
冬帽子アルザスの旅なつかしき  江口 井子
初富士にまづは立礼朝稽古    志磨 泉
去年今年厄病神と肩を組み  久保隆一郎
小熊手をななめに翳し選びけり  前山 真理
針仕事区切りのつかず日短か 千葉 美森
落葉降るなり落葉踏む音の中 田代 重光
初日の出待つ人影に加はりぬ 松井 秋尚

紅茶の後で - 4月号知音集選後評 -行方克巳

トロ箱を顔で抱へて市師走  小野桂之介

歳晩の築地市場界隈の嘱目であろう。糶り落とされた魚を並べたトロ箱をいくつも抱へて運んでゆく。何段にも積み重ね、それを抱えるのだが、胸のあたりにとどまらず、顔に達するまで積み重ねているのだ。中七の「顔で抱へて」はまさにその間の事情を的確に表現しているといえるだろう。

ベランダに続く枯野の先に夫 加藤  爽

ベランダの先が枯野に続いているというのは明らかに都会の風景ではない。どこか地方の荒涼とした冬野が連想されてくる。作者はその枯野の向うに夫の幻を見ているのである。どのような夫であったのか私の思いの及ぶことではないのだが、一句の趣からずいぶん色々なことがあったのだろうという推測はできる。ベランダという居住空間は、生活の一部である。そして、それに続く枯野にはさまざまな思いが去来する。しかし、その追憶のすべては枯野の向うに遠ざかろうとしているのだ。<霧襖きつと後ろに誰かゐる 爽>

父に似し眉根のきゆと年酒酌む  上野 文子

何だか頼りないと常々思っていた男の子が、いつの間にか成人し、妻を迎え、子供をなす。今は父の代りになって一党を率べてゆく技量さえ備えているように見受けるのである。改まって年酒を酌む、その引き締まった眉根がまさに父譲りなのである。

2018年3月号

窓下集 - 3月号同人作品 – 西村和子 選

どつしりと座りて婆が牡蠣を割る   竹本  是
葡萄の葉微醺帯びつつ枯れゆけり   井出野浩貴
街騒をぬけて波音冬ぬくし      前山 真理
天井につつかへてゐる聖樹かな    井戸ちゃわん
山霧を抜ければ湖の碧深き      植田とよき
冬に入る真綿のごとき雲を曳き    黒須 洋野
山茶花を掃き重ねたり朝の作務    林  良子
役者顔したる主や羽子板市      影山十二香
使う分とつておく分十二月      久保隆一郎
煤逃げのついでに寄りしゴッホ展   中川 純一

知音集 - 3月号雑詠作品 – 行方克巳 選

書痴われのけふ書に倦むや漱石忌   島田 藤江
縄付の出でしを今も鎌鼬       竹本  是
道行のくだりを胸に夕時雨      青木 桐花
日曜の父は下駄履き蓮は実に     藤田 銀子
水分石流れを分けて音分けて     井戸村知雪
透き通るまで熟れてゐる葡萄の実   片桐 啓之
摩天楼掠めて速し秋の雲       谷川 邦廣
父もまた父厭ひけむ根深汁      井出野浩貴
あの日から余白ばかりの日記果つ   高橋 桃衣
ぼろ市の裏道辿り救急車       井内 俊二

紅茶の後で - 3︎月号知音集選後評 -行方克巳

書痴われのけふ書に倦むや漱石忌   島田 藤江

知音の仲間には読書家が多い。中でも藤江さんはその最たる存在である。句会の折など何人かで最近読んだ本について情報の交換をしている光景をよく見掛けて大変たのもしく思うことがある。自分の読んで感銘を受けた本を回し読みするのも読書の範囲を拡げるのに意味のあることだろう。
さて、いつも必ず何時間か読書に費すのが常なのに、何だか分らぬがどうも今日は気がすすまない。ふと気がついてみると今日は漱石忌なのであった。文学に一生をかけた漱石のものはすべて読んでいる。漱石は今でも好きな作家である。それなのに − というおかしさが一句に流れていて興味深い作品となった。

縄付の出でしを今も鎌鼬       竹本  是

縄付という言葉は最近耳にしないが、悪事を働いて捕縛された人をいう。この平穏な村ではそういうことはめったにない。だから、今でもその事件は語り草になっているのである。
<亀鳴くや皆愚かなる村のもの 虚子>というような村人の生活がある。季語の鎌鼬も亀鳴くというのに似たようなわけの分らない季語ではある。

道行のくだりを胸に夕時雨      青木 桐花

知音俳句会が主催して、慶應義塾の北館ホールで朗読の会を催した。演者は俳優の清水紘治さん。演目は「曽根崎心中」であった。人形も人形遣いもなく三味線の伴奏もなく、文楽の台本を一人で朗読するというかたちは、宇多喜代子さんの、声だけで古典作品を享受するという新しい試みを実践したもので、すでに柿衛文庫で何度か行われてきたものである。
曽根崎心中は近松の心中物の中で私は最も好きな作品である。その天神森の段はまさに名文中の名文である。
「この世の名残、夜も名残、死にに往く身をたとふればあだしが原の道の霧。一足づつに消えて往く、夢の夢こそ哀れなれ」。清水紘治さんの哀切きわまりない朗読を作者は何度も思い出していたに相違あるまい。

 

2018年2月号

窓下集 - 2月号同人作品 – 西村和子 選

ガウディの聖堂未完銀杏散る   久保隆一郎
巡礼の如し落葉の道ゆくは    井出野浩貴
栗おこは買ひてひとりの十三夜  江口 井子
すこしづつ道狭くなる冬紅葉   高橋 桃衣
梟の目の横向けば気弱なる    中川 純一
白障子背山の風の音を吸ひ    大橋有美子
懸崖菊大振袖を競ふかに     影山十二香
一陣の風を追ひかけ木の実降る  石山紀代子
野分だつ八瀬に鬼の子山の民   中野 無麓
先生の髪に焼きそば文化の日   岡本 尚子

知音集 - 2月号雑詠作品 – 行方克巳 選

陪冢を囲む稲田も刈り了へし   江口 井子
二番成りぶだう抓めば空青し   馬場 繭子
離島へとヘリは冬雲攪拌し    三石知左子
落葉踏みたくてしんがり歩きけり 松枝真理子
西鶴忌出会ひ頭といふ恋も    藤田 銀子
晩学に迷ひの少しちちろ虫    福地  聰
国王の肖像画かけ夏館      藤江すみ江
冬仕度転居仕度と仕分けして   三浦 節子
水音の昏きを纏うて冬紅葉    井出野浩貴
かじけ猫雪の轍に並びゐる    佐藤 二葉

紅茶の後で - 2月号知音集選後評 -行方克巳

陪冢を囲む稲田も刈り了へし   江口 井子

陪冢は陪塚とも書き、ばいづかとも読む。主たる古墳に近接した近親者もしくは従者の墓と思われる。その陪冢を取り囲むように稔っていた稲田も、すっかり収穫が済んでその苅株が目立つ頃になったというのである。他の句から類推して、この陪冢は天皇陵に侍るものと思われる。田地となった長閑な大和国原の秋の景として旅人の心を楽しませている。

二番成りぶだう抓めば空青し   馬場 繭子

同人吟行会で蛇笏龍太の山盧を訪ねた折に吟行したワイナリーでの作句である。収穫が済んだ後の二番成りの葡萄がかなり残っていて、それを一行の誰もが心ゆくまで味わったことである。西洋の葡萄畑と違うのは日本のそれはほとんどが棚作りであることだ。だから葡萄の房を切るときは棚からぶら下がった房を切り取るわけだ。我々はそこかしこに残された葡萄の房から思い思いの一粒一粒をいただいた。空の青さが印象的だった。

離島へとヘリは冬雲攪拌し    三石知左子

離島とは何処あたりを指すのか分らないが、普段常駐している医師が居ない島はかなり存在するのではないだろうか。その一島に派遣されて島人の健康状態を見るというようなことが年に何度かあるのだろう。ヘリコプターが渡航の手段のようだから、定期的に通う船などもないのだろう。冬の雲をかきまぜるような勢いでヘリは進んでゆく。これから一仕事が待っている女医さんの覚悟のほどがうかがわれる力のこもった句である。

2018年1月号

窓下集 - 1月号同人作品 – 西村和子 選

わが胸の奔馬嘶き鰯雲      井出野浩貴
林檎選る星を持ちたるその一つ  中川 純一
書き割りの丘一面の女郎花    久保隆一郎
白樺の梢伝ひに秋の声      石山紀代子
草の花その名問ひたき人をらず  植田とよき
丸坊主耳の中まで日焼して    菊池 美星
よぐござつたなつすと林檎剥きくれし 中野のはら
容易には靡かぬ花よ女郎花    石原佳津子
山脈は北へ走れり野分晴     江口 井子
天主堂守る四軒甘藷畑      高橋 桃衣

知音集 - 1月号雑詠作品 – 行方克巳

諍ひの声を殺して良夜なる    米澤 響子
赤蜻蛉まだ固まらぬガラスのやう 田中久美子
明珍の秋の風鈴幽けさよ     八木澤 節
古書街の秋縦に積み横に積み   乗松 明美
積読よりカズオ・イシグロ秋灯下 くにしちあき
花野かな紫がちに揺れてゐる   下島 瑠璃
口笛にちよと惹かれゐる小鳥かな 中川 純一
山葡萄摘みてふくみて殿に    中野トシ子
鬼の子に見られて鍵の隠し場所  山田 まや
風まかせ鬼の捨子の 命綱     本宿 伶子

紅茶の後で - 1︎月号知音集選後評 -行方克巳

諍ひの声を殺して良夜なる    米澤 響子

十五夜の夜である。空には一片の雲もなく晴れ渡り、人々はそぞろに今宵の月を賞でてている。作者もその一人であるが、ふとその中の二人の押し殺したような声が耳に入って来た。その二人の会話は、月を賞美するような語調ではなく、内容は勿論聞きとれはしないのだが、明らかに何事か言い争っているのである。ただ、静かに月を眺めている人々の 防げになるような、そんな不粋な二人ではない。しかし、声を押し殺したような物言いは作者の耳には却って気に掛かって聞こえてくるのである。

赤蜻蛉まだ固まらぬガラスのやう 田中久美子

赤蜻蛉の透きとおるような赤さとその羽根のさまを炎から外してまだ固っていないガラスのようだと感じた。中七下五の比喩が、そのまま描写性を持っている句である。

明珍の秋の風鈴幽けさよ     八木澤 節

広瀬惟然の旧宅の軒端に吊り下げてあった明珍の箸を束ねた風鈴を詠んだ句である。全く描写性を持たない句であるが、あの微妙な明珍の風鈴の雰囲気をよく把えた句だと思う。同じ時の作に、<明珍の触れざる響秋の風 井内俊二><明珍の秋の風鈴かすかにも 野垣三千代>がある。

2017年12月号

窓下集 - 12月号同人作品 – 西村和子 選

カンナ赤有刺鉄線押し退けて    岡本 尚子
冷まじや怒髪天つく木つ端仏    江口 井子
秋雲や城下をゆけば子規の声    井出野浩貴
台風過羽田沖まで砂の色      大橋有美子
鍵盤の象牙黄ばみぬ秋灯      影山十二香
人のこととやかく言へぬ秋 暑し   天野きらら
水音にうち重なりて秋の蝉     石山紀代子
凾谷鉾風の大路を見下ろして    小池 博美
在釜告ぐ門の貼紙秋日和      山田 まや
桟橋を跣足やスニーカーを手に   植田とよき

知音集 - 12月号雑詠作品 – 行方克巳 選

手は足を足は手を追ひ阿波踊   井内 俊二
蜻蛉の群れてもはぐれても独り  久保隆一郎
夜の目の光れば鹿の獣めく    片桐 啓之
雲の峰健脚コース選びけり    石川 花野
鉋屑ふんはり匂ふ白露かな    影山十二香
火祭の火に煽らるる小競り合ひ  青木 桐花
バギーの子ゑのころ草に手の届き 山本 智恵
蟻の道でで虫の道我の道     前田 沙羅
アロハ着てサンダル履いて美術館 中野のはら
新宿もいつかは廃墟赤とんぼ   井出野浩貴

紅茶の後で - 12月号知音集選後評 -行方克巳

手は足を足は手を追ひ阿波踊   井内 俊二

阿波踊りの句と言えば、岸風三楼さんの、<手をあげて足を運べば阿波踊>という句が知られているが、俊二さんのこの句はちょっと異なった把え方をしているようだ。手をあげて足を運ぶという表現はなるほど合点する。その手足の動きの連続したムーブメントを分析してみると、確かに「手は足を足は手を追」うということになるように思われるのである。風三楼の句を十分承知した上での作であろう。

蜻蛉の群れてもはぐれても独り  久保隆一郎

蜻蛉のよみは普通「とんぼ」であるが、なまって「とんぼう」になったとされる。風生歳時記では、現代語の仮名表現としては「とんぼう」であり、古典的な表記では「とんばう」とする。
角川の俳句大歳時記では、考証の中には「とんばう」が多出するが、蜻蛉の傍題としては「とんぼう」をとっている。
私は「とんばう」という表記はどうも好きになれない。普通は「とんぼ」というのだから、「とんぼう」でいいと思う。
あめんぼうなども同様である。
掲句は、蜻蛉の群れ飛ぶときでも、あるいは一匹だけ群を群れている時でもどれも一人ぼっちであるという。作者の中のどうにもやる方ない寂寥感を蜻蛉のうえに見ているのである。

夜の目の光れば鹿の獣めく    片桐 啓之

昼日中の鹿の大きく澄んだ目はまことに愛らしく、野生の動物であるには違いないが、とても親近感を覚える存在だ。しかし、夜闇の中で目だけが光っている様子は、やはり獣に違いないと感じる。昼と夜では鹿はまるで異った動物のように思われるのである。

2017年10月号

窓下集 - 10月号同人作品 – 西村和子 選

江ノ電の警笛路地を抜けて夏   久保隆一郎
あめつちに水のあまねき青葉かな  井出野浩貴
堰越えて息吹き返し夏の川   植田とよき
ロープウェイ一気雪峰迫りきし  江口 井子
半夏生予報を違へかつと晴れ  栃尾 智子
火取虫過り炎の欠けにけり  竹本  是
危絵の隅に三毛猫蚊遣香   小池 博美
心太子育てなんぞあほらしき  岡本 尚子
鉾宿の昼の灯しを惜しまざる  中田 無麓
私わたしとサングラス外し見せ  津田ひびき

知音集 - 10月号雑詠作品 – 行方克巳 選

肖像の眼差し固く夏館  中川 純一
扇忙しく鼻先へ首筋へ  井戸ちゃわん
俺様の岩よと鱏のかぶさり来 植田とよき
宿直の看護士若き菜種梅雨  平野  哲斎
白絵具落とせし如く海月かな 吉田 林檎
はんざきは何時もどこかを縮めてる  片桐 啓之
明け易し妻の実家の妻の部屋  小野桂之介
女湯を恥づかしがりて子の五月  菊池 美里
新緑の奥も新緑その奥も  井内 俊二
実梅捥ぐよしよしと声掛けながら  米澤 響子

茶の後で - 10月号知音集選後評 -行方克巳

肖像の眼差し固く夏館  中川 純一

この句のポイントは、上五中七を夏館という季語がしっかりと受けているかということにかかっている。館の壁には同じ肖像画がいつでも掛かっているわけだから、はたして、夏館という季が活かされているか、が問題になるわけである。
もしこの句が冬館だったらどういうことになるかを考えてみると問題の所存は、はっきりするだろう。勿論、「眼差し固く」がつき過ぎになってしまうのである。「春館」とか「秋館」という季語は存在しない。従って夏館という設定に対しては「眼差し固く」が最適の表現という結論になるのである。

扇忙しく鼻先へ首筋へ  井戸ちゃわん

あまり上品な扇使いではない人物が彷彿する。せかせかと扇で風を起こしているのだが、じっとりと汗ばんだ鼻先とか首のあたりに触れんばかりにばたばたと煽いでいる様子は見ているだけで暑苦しく感じさせる。そういった人物が巧みに描写された句である。

俺様の岩よと鱏のかぶさり来 植田とよき

大きな鱏が悠然と泳いでいる様子は何だか海のならず者のようでもある。これは勿論水族館の所見であろうが、多くの魚達が目にも入らぬといった鱏の傍若無人の泳ぎっぷりである。岩のあたりに鰭を動かしている魚達にどけどけとばかりに鱏がそのステルス戦闘機の翼のような魚体でもってかむさってくるのだ。

2017年9月号

窓下集 - 9月号同人作品 – 西村和子 選

薫風や蘭陵王面脱ぎたまへ    吉田あや子
山城へ裏道とりて朴の花     前田 星子
寝転んで読む癖いまも桜桃忌   米澤 響子
黒揚羽前世王妃か傾城か     井出野浩貴
夏兆すオープンカーに犬乗せて  栃尾 智子
木雫を落とす技あり梅雨鴉    井内 俊二
船揺るるソフトクリームとろけさう 井戸ちゃわん
鉄橋の音は郷愁草茂る      磯貝由佳子
足るを知るまでに至らず新茶汲む 津田ひびき
万緑や大阪城は色褪せず     寺島 英子

知音集 - 9月号雑詠作品 – 行方克巳 選

ほんのりとしやぼんの香り濃紫陽花 山本 智恵
尼寺の小さき礎石や秋の声     栗林 圭魚
ブリューゲル展出でてうつつの梅雨の町 江口 井子
赤潮や龍宮の色溶け出して     鈴木 庸子
声にして師の句碑なぞる日の盛   島田 藤江
蛇衣を脱ぐ悪妻のよく眠る     津田ひびき
水上バイクしぶきの翼広げゆく   大塚 次郎
四十年暮らして迷子路地若葉    久保隆一郎
片脚のぶらんと垂れてハンモック  中川 純一
噴水の音を束ねて止まりけり    松井 秋尚

紅茶の後で - 9月号知音集選後評 -行方克巳

ほんのりとしやぼんの香り濃紫陽花 山本 智恵

この句の上五中七は勿論下五に掛かっている。そうすると、紫陽花の花に、しゃぼんの匂いがした、ということになる。そんなことがあるかしら、と疑うこともできるだろう。しかし、私は作者には確かにしゃぼんの匂いがしたのだろう、と考える。これは物理的事実云々ということではない。作者がどのような個人的体験をしたのか、ということなのである。かすかな石鹸の匂いを嗅ぎとった、というのは文芸上の事実に属することであり、それが一句を成立せしめる条件として受け入れることができれば、それで十分であろう。私にはかなりオリジナルなこの感受的表現が理解できるように思う。

尼寺の小さき礎石や秋の声     栗林 圭魚

静かな秋の夕暮れである。作者はとある尼寺の遺跡に佇んでいる。小規模の寺であったと見えて、その礎石も小ぢんまりとしている。いかにも静かなあたりの雰囲気に、この寺の往時の静寂なたたずまいなども思われてくるのである。

ブリューゲル展出でてうつつの梅雨の町 江口 井子

ブリューゲルはフランドル派の画家。その晩年は好んで農民の生活を描き続けた。彼のある時期の最高傑作とされる「バベルの塔」が今、上野に来ており、作者はその展覧会に足を運んだのであろう。この句はその展覧会のメインたるべき「バベルの塔」の残像が一句をなさしめたことが分る。結局は完成することなく終ったバベルの塔-。あまりに複雑な構造物とその大事業に取り組む職人達が詳細に描かれた一枚の絵はしばらくは作者の脳裡から離れようとはしない。梅雨に煙った現実の町並は次々に擦過してゆくばかりである。

2017年7月号

窓下集 - 7月号同人作品 – 西村和子 選

とこしへに母は黒髮天の川  吉田 林檎
船室の天井眩し春の波    井戸ちゃわん
耳になほ都をどりのヨーイヤサ 米澤 響子
枝々の影はぐらかす春の水  松井 秋尚
真剣はときに滑稽猫の恋   山田 まや
ステップを踏みつ象の子春を待つ  若原 圭子
抗ひし日々を置き去り卒業す 藤田 銀子
その翳のなかをしだるるさくらかな 井出野浩貴
翠黛のはなやぎ増せり花の雨 中田 無麓
海沿ひの町へ出張夏近し   月野木若葉

知音集 - 7月号雑詠作品 – 行方克巳 選

フラミンゴ春のレビューの楽屋裏  大橋有美子
銀しやりに目刺突き刺し喰ひしころ 竹本  是
むささびの黒瞳の覗く巣箱かな   岩田 道子
たかんなの息に湿れる新聞紙    栃尾 智子
顔あげて桜吹雪の中にゐる     井戸ちゃわん
鳥帰る吾にも翼ありし頃      大野まりな
春愁の流し目寅さんブロマイド   植田とよき
針供養働く人の指太き       難波 一球
大原の茶屋のもてなし春炬燵    前田 星子
金庫室内窓開いて春の雨      板垣もと子

紅茶の後で - 7月号知音集選後評 -行方克巳

フラミンゴ春のレビューの楽屋裏  大橋有美子

普通我々が見るフラミンゴは虹色の羽を持ち多数が群れて行動する。動物園の檻の中で沢山のフラミンゴが細長い脚をふわりふわりと動かして独特の動きを見せている。その賑やかなありさまを、作者は春のレビューの楽屋裏みたいだと表現したのである。楽屋裏とは楽屋の内部ということで、舞台が開く前に踊子達が思い思いのステップを踏んだりして、準備をしている、そんな情景をフラミンゴ達の動き方に見て取ったのであろう。「春のレビュー」で明るい彩りのフラミンゴの集まりらしさを思わせる。楽しい比喩の句である。

銀しやりに目刺突き刺し喰ひしころ 竹本  是

中七の「目指突き刺し」が何のことか分からないかも知れないが、これは戦後の食料事情が悪かった頃を考えれば理解が行く。すなわち、兄弟が多いと副食物でもおやつでも取り合いになっただろうから、大皿の上の目刺も自分の分はさっさと取り分けてしまうのである。そしてそれを、これもまた貴重であった白いご飯に突き刺しておくというのである。何人もの男兄弟の食事風景である。

むささびの黒瞳の覗く巣箱かな   岩田 道子

むささびはリス科。前肢と後肢の間に膜があって木から木へと飛び移る。眼が大きく愛らしいのだが、この巣箱から覗いている黒瞳はどうやら子供のむささびらしい。

2017年6月号

窓下集 - 6月号同人作品 – 西村和子 選

流氷に彳つはラスコリニコフかな  米澤 響子
春時雨墓前にふつと止みにけり   小林 月子
寝てさめて雪とけて雁帰りゆく   中川 純一
小流の音の育てし春子かな     竹本  是
雨の夜の更けて雛の息づかひ    井出野浩貴
草青む東寮南寮巽寮        江口 井子
春昼のうろうろ探す眼鏡かな    久保隆一郎
花ミモザ思ひ何ゆゑ空回り     大橋有美子
初午の巫女の細眉細面       中田 無麓
髪洗ふ今日と変はらぬ明日のため  吉田 林檎

知音集 - 6月号雑詠作品 – 行方克巳 選

初大師達磨買ひ筆買ひ忘れ     藤田 銀子
雛の間に通ふ足助の山気かな    中田 無麓
歯をせせりをりてゴリラの春愁   中川 純一
人の世に矢印ばかり鳥帰る     前田 沙羅
杉落葉噛んで薄氷ひろごれる    中野トシ子
恋の句が欲しや眩しき二月来る   馬場 繭子
船頭の演歌訛りてうららかに    原田 章代
初大師賽銭箱の継ぎ足され     前山 真理
海の絵の涼しき風を見てをりぬ   佐貫 亜美
人類史残りいくばく寒夕焼     井手野浩貴

紅茶の後で - 6月号知音集選後評 -行方克巳

初大師達磨買ひ筆買ひ忘れ     藤田 銀子

一月二十一日、新年最初の弘法大師空海の縁日を初大師という。関東近辺では川崎大師が最も知られており、多くの人出がある。福達磨は最も有名な縁起物で大小様々な達磨が境内の出店に所狭しと並べられる。その中に作者の心を引く達磨があったのだろう。しかし、もとより達磨を買おうなどとは思ってもいなかったので、そのことに気をとられ、また境内の混雑に捲き込まれているうちに、うっかりと筆を買ってくることを失念してしまった。弘法大師は三筆の一人で、それにちなんで筆を売っている。筆は文芸を象徴するものだから、その筆を買うことを忘れてしまったと自分を笑っているのである。

雛の間に通ふ足助の山気かな    中田 無麓

足助は愛知県豊田市の地名。古来塩の道の足助宿として栄えてきた。<野良着吊る土間がすなはちひひなの間>からも推察されるように、古い時代の趣が今にも残っている地と思われる。山の冷気が雛の間に座している自分にも感じられるというので、足助という固有名詞と相俟って、他所にはない雛の情緒を醸しだしている。

歯をせせりをりてゴリラの春愁   中川 純一

類人猿ゴリラの行動を見ていると本当に人間そっくりで時には苦笑いしたくなることさえある。歯をせせるという行為もその一つ。彼らは人間が見ていることなど全く気にかけていないから、ありのままの自分を見せてくれるのだ。しかもそのゴリラの雰囲気にはそこはかとなき愁いが感じられるというのである。

2017年5月号

窓下集 - 5月号同人作品 – 西村和子 選

風荒ぶたび流氷の爪立ちぬ   高橋 桃衣
流氷のまざと裂けしが緑噴く  中川 純一
寒卵地軸あるかに傾きて    米澤 響子
鷽替や麻痺の右手を庇ひつつ  中野のはら
水天の藍色緩び春兆す     石山紀代子
ポケットに摑むものなく春寒し 天野きらら
料峭の古備前徳利首すくめ   植田とよき
金箔をわづかに残し壺寒し   吉田 林檎
バレンタインデー本命のチョコ小ぶりなる 松枝真理子
待春や雀荘古書店ペナント屋  志磨 泉

知音集 - 5月号雑詠作品 – 行方克巳 選

寒夕焼この世の末の色あらば   久保隆一郎
裏日本出でぬ一生鰤起し     石原佳津子
家中の闇は動かず春一番     矢羽野沙衣
酒蔵の醪つぶやき山笑ふ     帯屋 七緒
ぼろ市にぼろは買はねど無駄遣ひ 藤田 銀子
薄氷の端踏んで母癒ゆるなり   太田  薫
大火鉢旧知のごとく囲みけり   永井ハンナ
ディレクターチェアを庭に春隣  原田 章代
蕗味噌や銀シャリ眩しかりし頃  本宿 伶子
やはらかく闇うづくまる冬座敷  島田 藤江

紅茶の後で - 5月号知音集選後評 -行方克巳

寒夕焼この世の末の色あらば   久保隆一郎

すさまじさを覚えるまでの寒の夕焼が作者の眼前に広がっている。そしてその赤さは例えようもないほど澄みきっているのである。もしこの世の終焉というものに色があったとしたら、まさにこの色なのではないか、と思う。今までに何度か、寒夕焼の前に立ち尽くした経験が私にもある。ときにそれは暗黒と爛れるような赤の相剋の世界でもあり、澄み切った浄土を思わせるような景でもあった。私の知人の説によると、人類はあと百年のうちに滅亡するという。その時、作者の目にしているような夕焼の空がやはり広がっているのであろうか。

裏日本出でぬ一生鰤起し     石原佳津子

かつて太平洋側を表日本といい日本海側を称して裏日本といった。奇妙な平等意識で、現在では公的にはほとんど使われていないのが、裏日本という言葉である。しかし私は、何となくその言葉のイメージするところに共感を覚える。作者は、その裏日本を一生出ることはない、という。勿論現在では交通が発達していることだし何の気遣いもなく上京は可能である。しかし、一旦生活の基盤を裏日本と呼ばれる地に置いたら、それはかつでそうだったように生涯その地に根を下ろすことになるのは必定かも知れない。そして、その地には他にはない自然があり、生活があるのだ。鰤起しという季題が十分に生かされた一句である。

家中の闇は動かず春一番     矢羽野沙衣

外は春になって初めての南風(春一番)が吹き荒れている。しかし、家という空間に充ちた静寂は外の動きには何の影響も受けることはなく、 部屋部屋の闇はいよいよしんと静まりかえるばかりである。