2017年2月号

窓下集 - 2月号同人作品 – 西村和子 選

この先は己の始末ダリア伐る  加藤  爽
家中の明かり灯してそぞろ寒  石山紀代子
日輪は褪せ蟷螂は枯れゆけり 井出野浩貴
小春日の手話天を指し沖を指し  久保隆一郎
露草や潮の香ほのとブルックリン 大野まりな
円窓の露の晴れゆく冬紅葉  影山十二香
ちゆら海の碧の変幻夏惜しむ  津田ひびき
金風に佇つ婚礼の一家族  中野のはら
野牡丹の咲きの盛りや小六月  黒木 豊子
碧落一洗上野の秋を惜しみけり  藤田 銀子

知音集 - 2月号雑詠作品 – 行方克巳 選

ビリジアン画布に盛り上げ冬ぬくし  小倉 京佳
束の間の癒しとて旅秋惜しむ  井内 俊二
芭蕉忌やあるがままなる道目指し  松井 秋尚
桔梗の咲けばたちまち中年増  藤田 銀子
藤袴旅の終りの香と思ふ  笠原みわ子
しなやかにしてしたたかや秋桜 村地八千穂
淋しさに虎も啼くらし昼の月  志磨  泉
受付に冬菊活けて御朱印所  村松 甲代
雪螢遊び相手を探しをり  塙  千晴
らんちうの目を開け眠る冬の水  鈴木 庸子

紅茶の後で - 2月号知音集選後評 -行方克巳

ビリジアン画布に盛り上げ冬ぬくし  小倉 京佳

ビリジアンは鮮やかな緑色の絵具。その鮮烈な絵具をこってりとカンバスに盛り上げている。新緑の頃だったら、そういう絵の景はどこにでもあるのだが、すでに冬である。しかしうららかな陽光の下の明るい森のような景が今作者の眼前に広がっているに違いあるまい。絵描きにもかなり大胆な表現をするアーティストだろうが、それを一句にしたときの作者もまたなかなか思い切った描き方をしている。

束の間の癒しとて旅秋惜しむ  井内 俊二

何か大きな 荷重が作者の背にのしかかったあと、その痛手を少しでも忘れようとして、小さな旅に出た。なかなかふっきれないものが心に蟠っているのだが、秋色の野川や山を眺めているうちに、少しずつ心が解れてきたのを覚える。行く秋を惜しむ心は、すでに何日か前の自分ではない—。

芭蕉忌やあるがままなる道目指し  松井 秋尚

翁に、〈此道や行人なしに秋の暮〉の句があるが、秋尚さんは今、俳句作者としてのわが道を模索し続けているようだ。
世俗的な、名刺などに煩わされることなく、本当のあるがままの自分の道を希求している。それこそが芭蕉の風雅に通じる道だということを知った人は、芭蕉さんと一緒の道を歩む人なのではないだろうか。

2017年1月号

窓下集 - 1月号同人作品 – 西村和子 選

雲一朶まとひて気比の今日の月  江口 井子
寒禽も声控へをり虚子御墓所  栗林 圭魚
秋刀魚焼く七輪が好き落語好き  山田 まや
台風裡軒に守宮のへばりつき  松原 幸恵
エプロンに上着ひつかけ御命講  中野トシ子
秋蝶の雨の木陰に探し物  松井 秋尚
新酒酌む無器用な弟子愛すべく  中川 純一
二次会は蕎麦屋の二階新走  影山十二香
うんちくは聞いてゐるふり今年酒  松枝真理子
旨いとも好きとも言わず衣被  藤田 銀子

知音集 - 1月号雑詠作品 – 行方克巳 選

まつさきに象を見にゆく秋日和  中野のはら
街角に突如ジャズ湧き秋祭  島田 藤江
盗人萩黒ストッキングに執したる  栃尾 智子
敬老の日の我が貌はこんな貌  植田とよき
露の世の仮面外せばマンドリル  米澤 響子
強がりは言わず仕舞に草の花  橋田 周子
栗の薄皮剥く甲虫の翅みたい  吉澤 章子
キッチンを片付け我の夜長かな 山本 智恵
面影に添ひてこの街初しぐれ  原田 章代
会ふたびに遠くなる人サングラス  石原佳津子

紅茶の後で - 1月号知音集選後評 -行方克巳

まつさきに象を見にゆく秋日和  中野のはら

象と言えば、まどみちおの「ぞうさんぞうさん おはながながいのね そうよかあさんもながいのよ」がよく知られている。またサトウハチローにも「象のシワ」という詩がある。とにかく大人にとっても子供にとっても象は夢のような存在なのだ。動物園の一番中心になっているのが象舎。私は河馬を必ず見に行くが、象をカットすることは絶対にない。
作者は吟行で動物園を訪れたのであろうが、まっ先に象さんを見に行ったのだ。とにかく理屈ではなくて、子供のことからのなつかしい動物、それが象なのである。ちなみにのはらさんは最近『象のうた』という句集を出版した。

街角に突如ジャズ湧き秋祭  島田 藤江

秋祭というより「オータム・フェスタ」とでも言ったらいいような街の催しである。のんびりと歩いていると街路の一角で突如ジャズが鳴り響いたのである。オープニングの合図になっているのだろうが、その後しばらく街角にはジャズの演奏が流れるのである。最近このようなかたちの祭が随所で見られるようになった。勿論昔通りの秋祭も変わらず行われているのである。

盗人萩黒ストッキングに執したる  栃尾 智子

同じように秋の野原に遊んだのに彼女の黒いストッキングにびっしりと盗人萩がくっついてしまって、一つ一つ取るのにずいぶん手間がかかってしまう。やはりこやつも魅力的な黒いストッキングが好きなんだ。

2016年12月号

窓下集 - 12月号同人作品 – 西村和子 選

看護婦の笑顔もくすり冬日和  佐貫 亜美
十六夜やわが処女句集届きたる  松枝真理子
蓮開く豊葦原の国にして  江口 井子
今生の午後を大事に吾亦紅  井出野浩 貴
口べたな漢を演じ衣被  久保隆一郎
秋夕焼一葦の水を染め上げし  島田 藤江
天高し働く人は背を丸め  大橋有美子
嘘を吐くことも孝行衣被  影山十二香
一湾の色を違へて野分波  大野まりな
天平の甍皓皓良夜かな  小倉 京佳

知音集 - 12月号雑詠作品 – 行方克巳 選

路地裏の隠れ踊りも風の盆  原 川雀
露の世に太刀笄の蒔絵かな  田久保 夕
国境の村の魔除けのたうがらし くにしちあき
早紅葉の一葉栞りて旅終る  江口 井子
ゆつくりと二百十日の没り日かな 片桐 啓之
神々は健やかなりや新松子  島田 藤江
月光をはらひ胡服の袖袂  中田 無麓
子規庵の玻璃戸に歪む糸瓜かな  田代 重光
魑魅らは闇に退き月今宵  井内 俊二
午後五時の西日に向ひつつ歩む 岩田 道子

紅茶の後で - 12月号知音集選後評 -行方克巳

路地裏の隠れ踊りも風の盆  原 川雀

今、風の盆の人気はすさまじく、その日ばかりは宿泊するホテルや旅宿も満杯状態であるという。私も三度ほど出かけたが、その時からすでに町中が旅客であふれ返るような状況であった。カメラが好きな私は、一旦カメラ目線になると居ても立ってもいられなくなる。カメラ小僧となって踊り子を追いかけてしまい、踊りの列の前の方に体を乗り出してしまう。
ある時、提灯をかざして踊りを先導していた若いのが、「邪魔だ、邪魔だ。写真なら絵葉書を買えばいい」と私をどなり付けた。余程ケンカをしてやろうと思ったけれど、同行の仲間もいることだし、黙って引き下がった。それ以来、風の盆からは遠ざかってしまったのだが、今回の川雀さんの五句で目が覚めたような気持を味わった。
風の盆の隠れ踊りということを寡聞にして私は知らないが、多分町内の踊りの正式なメンバーから外れた何人かが、遠くから聞こえてくる三味線や胡弓に合わせて自分達だけで踊っているのではないかと思う。大勢の観光客に囲まれてまるでスターのように踊る、そのおわら節とは違った路地裏の景に、むしろ風の盆らしさを強く感じるのである。

露の世に太刀笄の蒔絵かな  田久保 夕

一般的に露の世にはいわゆる季語としての働きはない。太刀の鞘とか笄には美事な蒔絵を施したものが多く現存する。いにしえの匠の技は美事としか言いようがない。私は日本刀を愛好しているが、何百年も前に鍛えられた刀身が現在わが前に氷のような光を放つのである。現在でこそ優れた匠達は人間国宝などと高い地位を与えられているが、昔は親の跡をひたすら守って現在まで残るような作品を作り続けてきたのである。どんなことが起り、世の中がどのように変わってゆくかも分からないこの世において永らえている、銘品の一つ一つが私たちの胸に強く印象されて来る。明け方になればホロリと散ってしまう露、その露に例えられる現世に、誰が作ったかも分からない蒔絵の逸品、その秋草の文様にも白露がほのかに光るような、そんな思いがする。この句の「露の世」は単にはかないものという比喩ではなく、ある働きがあることが理解されるだろう。

国境の村の魔除けのたうがらし くにしちあき

唐辛はつんつん天を向いて熟すので「天井まもり」ともいう。「まもり」はもともと目守ルということで、それが守る、護るという意になってきた。我が国ではこの唐辛子が魔除のように飾られることは多いのだが、この句のように外国でも同様に用いられていることはおもしろい。

2016年11月号

窓下集 - 11月号同人作品 – 西村和子 選

江ノ電の乗り降り自由切符夏  久保隆一郎
湖に出る道遠し余花にあふ  中野トシ子
百本の堀つ立て柱海の家  米澤 響子
祭鱧逢ふときいつも雨もよひ 井手野浩貴
飛び出でて宙にとどまる草矢かな  松井 秋尚
星雲のほとりに1人キャンプ張る  岩本 隼人
新涼の銀座新調の上衣着て  國司 正夫
蓮の葉に触るれば銀の粒こぼれ  植田とよき
胃と腸と目と歯の検査秋暑し  馬場 白州
ビール酌む恋の話に尾鰭つけ 前山 真理

知音集 - 11月号雑詠作品 – 行方克巳 選

ねえと呼びかけてしまへり夜の秋  小林 月子
「ラジオ体操第一」八月十五日  國司 正夫
草も木も押し黙りをり朝曇  磯貝由佳子
免許証返上しぶり生身魂  河内  環
蜜豆や長女はなべて矩越えず  井出野浩貴
滝落ちて落ちてすつくと立ち上がる  中川 純一
芒野は光うつろひゆくところ  小山 良枝
時の日や手足を伸ばすお腹の子  青木あき子
この赤はつやつやの唐辛子色  山本 智恵

紅茶の後で - 11月号知音集選後評 -行方克巳

ねえと呼びかけてしまへり夜の秋  小林 月子

月子さんはこの七月にご主人を亡くされた。何かにつけて二人相談し、結論を出すという日常で、最も頼りになる人であったことは、他の句からも、また常日頃の彼女の落ち着いた言動からも推測に難くない。葬儀も了ってしばらくたった今も、呼び掛ければすぐに答えてくれるような気がする。昼の暑さも少し遠のいて、夜には少し肌寒さを覚えるような時、ふと思い付いたことがあり、思わず「ねえ!」と声に出してしまった。彼に聞いて欲しいことがあり、それが無意識のうちい言葉になってしまったのだ。
窪田空穂に、<人呼ぶと妻が名呼べり幾度をかかるあやまちするらむ我は>という歌があることを私は思い出していた。

「ラジオ体操第一」八月十五日  國司 正夫

ラジオ体操というのはまさに国民的といってもいいほど、日本人の共通の社会現象になっている。私も小学生の頃から高校生になるまで、スポーツ大会の準備運動として必ずこれをやってきた。夏休みなど、各町内会毎に早朝のラジオ体操に参加させられた記憶もある。そのラジオ体操の第一が、終戦記念の八月十五日の今日もスピーカーを通じて聞こえてくる。
思えばこのラジオ体操が敗戦国日本をずっと鼓舞し続けてきたような、そんな思いさえするのである。

草も木も押し黙りをり朝曇  磯貝由佳子

朝からどんよりと曇っている日は決まって暑い一日になるものである。全く風もなく、草や木は静まり返って物音もない。そういう様子を「押し黙り」という擬人法を用いて的確に表現した一句である。むんむんと蒸した今日一日がいやでも思いやられる。

2016年10月号

窓下集 - 10月号同人作品 – 西村和子 選

裏腹な返事飛び出しソーダ水  岡本 尚子
深吉野の若鮎とこそ今日の膳  江口 井子
流寓の果ての奥つ城ほととぎす 島田 藤江
神輿庫俗世の風を通したり  大橋有美子
去りがての墓地にひと声時鳥  中野トシ子
海風に育ちてカンナ猛猛し  栃尾 智子
鉾を組む影も亭午の日に痩せて  中田 無麓
なほ遠く/\に点り鉾提灯  米澤 響子
キャンプの火消えて風音水の音  石山紀代子
坂東の風ゆつたりと余り苗  井戸村知雪

知音集 - 10月号雑詠作品 – 行方克巳 選

北の地に祖父の思ひ出海猫舞へり  井内 俊二
ごきぶりや使はぬ鍋は捨つるべし  矢羽野沙衣
影のなき無間地獄の岩灼くる  前山 真理
灼けにけり石垣にならざりし石  小野 雅子
夏山の稜線くつきり術後の眼  小原 純子
わが耳のけふ澄みにけり岩ひばり  島田 藤江
佇つ影に蛙の眼動きけり  前田比呂志
馬の背に水平線や青岬  植田とよき
でこぼこの芝のビニールプールかな  岡村 紫子
薫風やファウルボールを素手に受け  井出野浩貴

紅茶の後で - 10月号知音集選後評 -行方克巳

北の地に祖父の思ひ出海猫舞へり  井内 俊二

この北涯の地に立って海猫の数多鳴いて飛びめぐるのを見ていると、しきりに祖父のことが思い出される。幼い頃聞かされて育った、北海道の厳しい自然は、まるで遺伝子のように祖父から自分に承け継がれ、その記憶が作者の脳裡に蘇生されてゆくかのように鮮やかに甦がえる。祖父の目にしたであろう現実が世代を越えて重層するのである。

ごきぶりや使はぬ鍋は捨つるべし  矢羽野沙衣

実に奇妙な句である。上五と中七下五が何の関連性もなく、一体作者は何を考えているのか、と読者は首を傾げるのである。ごきぶりという季語と続く中七下五をつなぐ、切 字の「や」こそ、作者の作者らしい発想のポイントなのであり、沙衣さんの俳句のおもしろさがある。ごきぶりは、別名「御器囓(かぶ)り」という。現在ではお椀など除くと木地で出来ている食器や台所道具はほとんどなく、大体が金属性のものである。そういう鍋やフライパンなどの積み重ねられた台所の一隅に、憎っくきごきぶりが逃げ込んだのである。ほとんど使う機会がない、鍋などの何と雑多にあることか。と、説明してみれば何ということはない句であるが、そこが何ともおかしな処なのである。

影のなき無間地獄の岩灼くる  前山 真理

恐山の風景である。雲一つない天空から降り注ぐ日に灼かれた岩々。影の全くないことが、いよいよ無間地獄の印象を深くする。至る処に供えられた死児のためのセルロイドの風車がからからと乾いた音を立てている。夢か現かというような心地のままに六道巡りの赤茶けた径を歩む。

2016年9月号

窓下集 - 9月号同人作品 – 西村和子 選

救護支援任務完遂ビール干す  三石知左子
うたた寝の車窓ときをり新樹光  吉田 林檎
人の世に欠伸してみる蜥蜴かな  久保隆一郎
美術館ガラスの壁も梅雨湿り  植田とよき
ランボオの弊衣蓬髪麦熟るる  井出野浩貴
文芸の悩み忘れてさくらんぼ  八木澤 節
先生と呼ばれてパナマ帽小粋  影山十二番
糠雨や鹿の子のふと憂ひ顔  藤田 銀子
青柳越しや彼岸の阿彌陀堂  江口 井子
杉山の霧に磨かれ句碑涼し  吉田あや子

知音集 - 9月号雑詠作品 – 行方克巳 選

春の夢醒め不整脈をさまらず  黒山茂兵衛
江戸の風肥後の風吹く花菖蒲  立花 湖舟
海峡の色に咲きけり額の花  中野のはら
アルバムの頁より抜け春の夢  佐竹凛凛子
蜘蛛の巣のテーブルクロス魔女の家  小池 博美
鍵かけぬ暮しの網戸閉てにけり  栃尾 智子
はつ夏の躰のどこか水の音  島田 藤江
軽鳧の子の睡る仔猫のごと睡る  吉澤 章子
青白く化粧ひたるなり今年竹  鈴木 庸子
兄やさし妹強し大西日  西野きらら

紅茶の後で - 9月号知音集選後評 -行方克巳

春の夢醒め不整脈をさまらず  黒山茂兵衛

春の夢というとまずははかないという印象があるのだが、楽しさ、悲しさ、あやしさなど様々に詠ってもよいのである。この句の作者は一体どのような夢を見ていたのであろう。夢が覚めた後も不整脈が収まらなかったというのだから、よほど辛い夢か、あるいはその反対にどきどきする程素敵な夢だったのかも知れないのだが、私はやはり前者であると思う。
とても悲しい夢であって、目覚めてほっとした後でも胸の動悸がなかなか尋常にはもどらなかったのである。

江戸の風肥後の風吹く花菖蒲  立花 湖舟

花菖蒲には五百年程の栽培の歴史があるというが、江戸系、肥後系、そして伊勢系の三つに大別される。作者が眼前にしているのはそのうちの江戸系と肥後系の花菖蒲なのである。それぞれの株が吹かれている様子を、江戸の風と肥後の風に吹かれているよと洒落たのである。いわゆるウイットの句であるがなかなかの切れ味が感じられる。

海峡の色に咲きけり額の花  中野のはら

額の花の際立った瑠璃色の美しさを、海峡の色と表現した。海峡の色とは曖昧な表現なのだけれど、鑑賞者の側にある、それぞれのイメージが喚起されて一句の色付けがなされることになる。つまりこの一句は、読者それぞれの感性によって完結する作品ということなのである。

2016年8月号

窓下集 - 8月号同人作品 – 西村和子 選

退院の目に紫木蓮飛び込んで  田中久美子
鎌倉の海山青し夏燕  石山紀代子
牡丹の報ひのごとく崩れけり  岩本 隼人
わたなかのウィンドサーフィン駒のごと  大橋有美子
おとうとが本家を守り花は葉に  大野まりな
花樗さゆらげば色見えてきし  江口 井子
草も木も伸びる膨るる風薫る  井内 俊二
角力絵の怒濤のごとし柏餅  中川 純一
五月闇白鳳仏の黒光り  谷川 邦廣
卯月波少年の背の薄つぺら  小倉 京佳

知音集 - 8月号雑詠作品 – 行方克巳 選

折れさうな心をつなぎ牡丹の芽  前田 沙羅
四五尺の棒の先つぽ楤芽吹く  中野 トシ子
麦秋や無言館へと坂がかり  江口 井子
風にのり風に逆らひ野に遊ぶ  井戸ちゃわん
見上げゐる黒猫よそに鳥の恋  帯屋 七緒
シェーカーを振る音ひとつ春の宵  月野木若葉
初夏の空へ突き抜け登窯  中田 無麓
白鼻心の夜の置土産夏来る  本宿 伶子
生き別れ死に別れして花に逢ふ  立花 湖舟
づかづかと風青蘆を踏んでゆき  井内 俊二

紅茶の後で - 8月号知音集選後評 -行方克巳

折れさうな心をつなぎ牡丹の芽  前田 沙羅

いつも穏やかな微笑みを浮かべていても浮世は憂き世、誰にも他人にははかり知れない辛いことだってあるだろう。ともすればポッキリと折れてしまいそうな気持ちをせいぜい取り繕って生きてゆかざるを得ないのが日常というもの。牡丹のたのもしい芽ごしらえに、日頃の憂さをしばし忘れている作者なのである。

四五尺の棒の先つぽ楤芽吹く  中野トシ子

何の変哲もない、まさに棒切れの先っぽみたいなところから楤は独特の芽を出す。その若芽がいわゆる楤の芽であり、天婦羅などにして食べるのである。野草などを摘んで生活としている人たちは、必ず何がしかの芽は摘まないで残しておく。全部摘み尽くしてしまったら、楤は全滅してしまうのだ。折角残してあるその芽をそんなことを知らない素人が摘んでしまうことがある。そういう場所は、棒状の木だけが何本か残っているという無残なていたらくとなる。

シェーカーを振る音ひとつ春の宵  月野木若葉

夜明けのバーのカウンターに、カクテルグラスを手に一人座っているのが作者である。大きな声で話をする客も居らず静かな時間が過ぎてゆく。物音と言えばバーテンダーが客の注文のカクテルを作るシェーカーの音ばかり。きっと夜遅くまで仕事に追われていたに違いない、そんな作者にはこのような心を休ませる時間が是非とも必要なのである。